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大量殺人は空虚な娯楽

イドはストーリー全体だと第10話が一番好きだ。エピソード単体だと第3話のテーマが一番興味深かった。井戸内ミステリもどきが一番釈然としなかったのも第3話だけど、井戸の中身なんてあくまで心象風景だし。井戸内の謎解きは最初からフェアアンフェア議論ができるような性質のものじゃない。

 大量殺人、特にフィクションでの大量殺人はどう言い繕ってもいかがわしい娯楽としての側面が出てしまう。推理小説でも被害者の数が膨大になるほどにその現実味は失われ薄っぺらいものになる。大量の死体を前に平然と談笑する名探偵たち(少年であることも珍しくない)の姿などは、推理ものではごく当たり前の光景となって久しい。それにツッコミを入れるとしたら「今更」「あえて」をつける必要が出る。

イドの第3話の犯人、花火師は爆弾による大量殺人犯だ。快楽殺人犯の一種だが、自ら手を下すことでなく死んでいく人間を身近で眺めることに楽しみを感じている。そして同じように大量殺人をショーとして鑑賞してしまう群衆を見下しかつ責任転嫁の対象とし、生死の区別の無価値さと群衆の薄っぺらさを知らしめるために大量殺人を犯していると主張する。その矛盾した主張と醜い責任転嫁は主観のうちにしか成立せず、他者から見た薄っぺらさは自明のものだ。鳴瓢の指摘で追い詰められた花火師は、虚構の美学を守るために自ら死を選ばざるを得なくなる。

脚本家の舞城王太郎先生はメタミステリを書く作家だ。花火師を大量殺人の起きるミステリの作者と読み替えるなら、大量殺人の起きるミステリが空虚な娯楽であることに対するミステリ作家自身の認識が見えてくる。空虚な娯楽であることは自覚しつつもやはり創作行為を楽しんでいる。そして過度な教訓性を引き出して自己正当化しようとすることや娯楽を享受する読者に責任転嫁することを、死に値するほど厳しく戒めている。