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トロッコ問題

ロッコ問題について面白い論文を見つけた。
まずトロッコ問題というのは

5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

という思考実験のこと。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。

しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。[この問題は「The fat man」と呼ばれるもので、Judith Jarvis Thomsonが提案したトロッコ問題のバリエーション]

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。カリフォルニア州パロアルトで10月26日(米国時間)に行なわれた、全米サイエンス・ライティング振興協議会(CASW)の会議でのことだ。[Time誌の記事によると、「5人を救うためでも線路に落とさない」と回答するのは85%にのぼる]

人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス
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多を救うために少を犠牲にするように「介入する」か、「介入せずに」多が轢かれるままにして少を生かすか、という問題だ。カントの義務論など、介入しない方が倫理的だという思想もある。
だからこの記事のように介入するのが正しいと決めつけている記事はトロッコ問題の意図からずれている。

他の似たような思考実験である、介入しなければ全てが死ぬ状態で少を犠牲にするのが許されるのかという問題とも異なる。


本題の論文。

この論文によると、国や文化を超えて「介入する」ことが倫理的に正しいと感じる人間が多く、その割合もほぼ同じだそうだ。しかし「自分が」介入することを選べるかと問われると、割合は変わってくる。
2014年にイギリス人と中国人で行った調査では、中国人の方が自分は介入しないと答える割合が高かった。その調査では中国人に運命決定論的な思想があるためではないかと仮説を立てていた。
しかし『トロッコ問題への反応の文化差はどこから来るのか?関係流動性と評判期待の役割に関する国際比較研究』では、「高関係流動性社会の人々はポジティブ評判の獲得を、低関係流動性社会の人々はネガティブ評判の回避を重視する」点に理由があり、低関係流動性社会の中国人と高関係流動性社会であるイギリス人の差が出たという仮説を立てた。そして低関係流動性社会の日本人と高関係流動性社会のアメリカ人で比較的調査を行った。その結果、介入することが倫理的に正しいと答えた割合は日本人が71.0%でアメリカ人が62.9%、自分は介入すると答えた割合は日本人が50.8%でアメリカ人68.2%となった。
日本人は多を救う介入を倫理的と感じても実行できない傾向が出た。
調査対象者の関係流動性得点は日本人の方がアメリカ人よりも低かった。

この仮説が正しいのかは置いておいても、東アジア人と欧米人には文化の違い基づく反応の違いがあるらしい。
自分は介入は倫理的に正しいと感じる、でも介入できない(介入を迷ううちにトロッコが5人を轢いてしまうだろうから)という選択になる。
より興味を惹きつけられる点も色々とある。
中国が低関係流動性社会でイギリスが高関係流動性社会という前提は正しいのか?今の中国で調査を行うとどうなるのか?
関係流動性以外の要因は考察で挙げたものの他にもありうるか?