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トロッコ問題2

ロッコ問題は「自分が線路に飛び込んで止める」ことがもし可能なら、それが一番倫理的だ。でも選択肢にないし(大喜利的に主張する人はいる)、あっても現実的には選びにくい。むしろ自分が線路上に1人でいる方だったら、たとえ後で逮捕されようとも全力で切り替えを阻止しようとするかもしれない。他人事なら多と少で多を助けるべきと言いやすいけど、自分のことだと難しい。
こういう問題でよく引き合いに出されるのがカルネアデスの板だ。カルネアデスという古代ギリシアの哲学者が提唱したこの問題は、海難事故が起きて1人を支えるのがやっとの舟板に2人の男がすがりつこうとした時に、一方の男がもう一方の男を突き飛ばし、結果的に死なせてしまっても殺人罪にならないという内容だ。現在危機が迫っていて、あるものを守るために、どうしてもやむを得ないなら、同等のものまでなら引き換えに犠牲にしても刑罰に問われないとされる。この考え方を緊急避難という。
刑罰と倫理はイコールではないけど、深い関係にあることは間違いない。
少し前にネットでトロッコ問題が話題になったのは、自動運転車と緊急避難についての議論が盛り上がったからだった。現実的にはトロッコ問題のような細かいシチュエーションを判断するためのプログラムは必要ないらしいんだけど、自動車事故と緊急避難の関係は身近な問題だけに気になる人が多かった。
基本的に多くの国が緊急避難を認めている。しかし内容は国によって異なる。
日本だと、自動運転のプログラムに被害を最小限にするため少の生命を犠牲にする内容を組み込んでも、緊急避難が適応される可能性がある。
一方でドイツだと、判例や通説によれば、緊急避難のためであっても他人の生命を量として比較することは否定されているそうだ。自分や密接な関係にある者のためならともかく、他人ならば、多の生命を救うためであっても少の生命を犠牲にしてはいけない。現行法の下では、自動運転のプログラムに被害を最小限にするため少の生命を犠牲にする内容を組み込むことはできない。
しかし超法規的免責緊急避難が適応される場合もある。憲法解釈では、旅客機がハイジャックされ、人口密集地に墜落させられる恐れがある場合でも、事前に撃墜して乗客を犠牲にすることは違憲とされている。しかしハイジャックで墜落した場合でも撃墜された場合でも乗客が犠牲になることには変わりがないので、事前に墜落しても免責となる可能性が高いとされる。トロッコ問題でも、実際に居合わせた場合なら、1人を犠牲にする選択をしても免責される可能性がある。