メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ドラクエとかでプレイヤーキャラが村人の家に勝手に侵入したり家探しをしたりしてもいいのは、プレイヤーキャラが現実の人間の化身でノンプレイヤーキャラはあくまで作り物の置物だからだ。
ゲーム用語では外見をカスタマイズできるプレイヤーキャラをアバターと呼ぶことが多い。でもそうでないのも含めてプレイヤーキャラはすべてが現実という上層世界の人間がゲーム世界という下層世界に降臨するために用意されたアバター(化身)だ。インド神話では神々が下界に降臨するために用意した人の身のことをアヴァターラと呼ぶ。アヴァターラがアバターの語源だ。神々と人間が別の次元の存在であるように、プレイヤーキャラとノンプレイヤーキャラも別の次元の存在だ。
ゲームの楽しさの本分はプレイヤーが選択して行動することにある。面白いシナリオがあるに越したことはないが基本はオマケだ。シナリオの質に没入感や面白さが大きく左右されるのはありふれたゲームシステムの場合がほとんどだ。RPGサウンドノベルの類は多くが保守的なシステムを維持している。
一方で、ほとんどのフィクションでは主人公とそれ以外の登場人物は同じ次元の存在だ。ただし主人公の主観のみで描写される一人称小説では主人公に読者が没入することを狙う作品が多い。そういう作品では、現実でも同じ次元にいる自分と自分以外の人間を公平には扱えないように、読者が感情移入した主人公に対して身びいきするように構成されている。もちろん読者が主人公に客観的になることを意図して構成されている一人称小説も存在する。
いわゆるなろう系小説は、一人称視点と主人公が現実世界からゲーム的な異世界に転生する設定によって、読者が主人公に強く没入するよう意図されているものが多い。そのため主人公がそれ以外の登場人物を欲望のままに利用するような行動を取っても鼻につきにくい。ゲームのプレイヤーキャラがノンプレイヤーキャラを利用するのと同じ構図だからだ。しかしなろう系小説でもなろう風の雰囲気を狙った作品でも、そういうわかりやすい快楽を入口にしてより深い設定やストーリーに進むものも珍しくない。
三人称小説や多くの漫画・映像作品では、主人公とそれ以外の登場人物が同じ次元にいることが客観的に示されている。そのため主人公とそれ以外の登場人物に対する受け手のジャッジも比較的客観的なものになりやすい。ジブリアニメのような空間や時間の確かさ・連続性が意識されている作品ではなおさらだ。多くの宮崎監督アニメでは、受け手が客観的に判断しても魅力的に感じられるよう、主人公とヒロインは特別立派な人物として設定されている。エンタメとしての完成度が高い設計だ。だが高畑監督アニメや、宮崎監督アニメでも風立ちぬなどは、主人公が現実離れした好人物ではないように設定されている。主人公を通じ、受け手がテーマを現実の自分にひきつけて考える余地を多く用意している。
他方、主人公の主観的な表現の強い少女漫画や、実写でも時空間をデフォルメした作品などは比較的主人公に没入しやすい表現がなされている。