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メタフィクションとリアリティ

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日本でメタフィクションを扱う作家といえば筒井康隆先生。筒井先生は文学賞舞城王太郎先生を推薦する側の作家でもあるそうだ。

メタフィクションっていうのは基本的に既存のスタイルに茶々を入れるスタイルのことで、大抵はギャグになる。リアルではないけどリアリティを感じられていた設定を茶番だと暴露してしまう。“社会派推理小説”に対する『富豪刑事』、“スポ根”に対する『YAWARA!』、“騎士道物語”に対する『ドン・キホーテ』などが有名な例だ。ただ『YAWARA!』や『ドン・キホーテ』など、作品内の茶々を登場人物たちが乗り越えていくことでかえって作品全体としてはリアリティを強化し、新たな王道をつくり出す作品も少なくはない。

逆に現実ではありえないお約束に基づいたフィクションへ生々しさを持ち込むのもメタフィクションの1種と言えるだろう。”ロボもの”に対するいわゆる人型リアルロボット、”アメコミ”のバットマンに対する『ダークナイト』など。「リアル系」はリアルではない。フィクションのお約束としてファンタジー的に流されていた存在に、実は現実的な裏付けがあったと判明するのもこの仲間だ。これらは基本的にジャンルの文脈を前提としているので、それを無視すると「人間の搭乗する人型ロボットなんてありえない設定なのになんかリアルな戦争ぶってシリアスごっこしてる」とか「自警団気取りの全身タイツ男がなんかシリアスごっこしてる」とかそういう評価になってしまいかねない。文脈を踏まえないとリアリティレベルがちぐはぐに感じてしまう。でも文脈を理解しているマニアにはたまらないのだ。むしろ現実の戦争の悲惨さと人間の搭乗する人型ロボットは同等のリアルさを持っているとマニア同士で承認し合える。自分もこの手のマニアの一員だ。

セカイ系もこうした系譜の1種で、まるでリアリティのない世界の危機と思春期レベルで生々しい主人公の葛藤、思春期レベルの想像力で無駄に生々しく大人から虐待される少女という基本的にリアリティレベルがちぐはぐなものが接続される。それは流行当時のファンには虚構だとわかっていても生々しく感じられたはずだ。語り手の主観のみで構成できる小説ではリアリティレベルのちぐはぐなものをあえて接続するというのはよくある手法で、セカイ系に近い世界観を持つ小説そのものは流行以前から少なからず存在した。だけどセカイ系が話題になった当時は、アニメ・漫画・アダルトゲームなどむしろ絵が重要な作品が流行の中心になっていたというのは興味深い。具体的な絵として受け入れられたものは主観でなく客観のように感じられる。