メモ帳用ブログ

色々な雑記。

下の内容を修正し直し。
尾形は第243話で自分は誰を殺したって罪悪感がわかないと宇佐美に話し、「両親からの愛の有る無しで人間に違いなど生まれない」と自分に言い聞かせようとしている。つまり本心では両親からの愛の有る無しで人間に違いが生まれると考えている。
第103話では母親に対する愛情がなかっただろうと父親を非難しつつ、「愛情のない親が交わって出来る子供は 何かが欠けた人間に育つのですかね?」と言っている。この何かとは罪悪感だ。
尾形にとって祝福されることと愛されることは同義だ。
尾形の理論を整理すると以下のようになる。


愛情のない親が交わって出来る子供→親に愛されて生まれてこれない→罪悪感が欠けた人間として生まれる


尾形は第243話で、自分は愛の無い妾の子だからおかしいのだろうか、いや、実は自分も父上から愛されていたとすれば勇作殿との違いは何もない、勇作殿にも罪悪感なく生きられる素質はあるはずだと考えた。尾形の理論では、罪悪感の有無と親に愛されて育てられるかは無関係で、関係するのは親に愛されて生まれてくる=親から誕生を祝福される点のみのようだ。
勇作と出会った時も屈託のない笑顔に「ああ これが両親から祝福されて生まれた子供なのだ……」と感じたことを語っている。祝福されて生まれた点は気にしているが、愛されて育てられた点は気にしていない。
人は生まれではないと考えている杉元とは正反対だ。