メモ帳用ブログ

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列車で死んだキャラでも流石に尾形の描写はちゃんとしてたな。
尾形の罪悪感理論について新しく気付いたことがあるから、後で整理し直さないと。
尾形は父親を殺害する際に「愛情のない親が交わって出来る子供は 何かが欠けた人間に育つのですかね?」と言っていた。この何かとは罪悪感だ。そしてその後「ただひとつ確かめてみたかった (中略) 祝福された道が俺にもあったのか…」と語った。だから以下のような理論を考えているのだとなんとなく思いこんでしまっていた。


愛情のある親が交わって出来る子供→祝福されている→罪悪感がある


しかし中略部分のセリフは「勇作さんの戦死を聞いたとき… 父上は俺を想ったのか… 無視し続けた妾の息子が急に愛おしくなったのではないかと…」だ。だから以下のように理解するほうが適切だ。


 ┌→罪悪感がある
愛情のある親が交わって出来る子供
 └→親から祝福されている可能性が高い


愛情のある親が交わって出来る子供には罪悪感があり、愛情のない親が交わって出来る子供は罪悪感が欠けているという尾形の仮説と、親から愛された子供は祝福されているという尾形の認識は本来別個のものだ。だが尾形は愛情のある親が交わって出来る子供は親から愛されている可能性が高い(愛情のない親が交わって出来る欠けた子供でも親から愛されることはあり得ると尾形は認識している)とも推測しているために理論の筋道がわかりにくくなっている。
尾形は最期に自分の罪悪感と向き合い、自分の理論に基づいて自分は愛情のある親が交わって出来た子供だと考えた。幼い尾形が安堵しているのはこの部分だ。そしてその次に、ならば自分は祝福されて生まれてきた子である=親から愛されて生まれてきた子であると推測した。典型的な誤った三段論法だけど、尾形の推測はいつも飛躍しがちではある。この推測を尾形に伝えたのは初めて自分が愛されていると感じさせてくれた勇作の幻覚だ。ただ、これは尾形は勇作が愛してくれたのだから親からは愛されなくてもいいというふうには納得できなかったことを意味している。尾形は最期の最期まで親からの愛にこだわっていた。