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尾形はアンビバレンスな人間だ。あらゆる点で2つの矛盾する行動原理抱えている。だからその2つがどのように絡み合っているのかを理解するのが難しい。
罪悪感に関する行動原理の1つ目は、自分は罪悪感の欠けたおかしい人間で、愛の無い親が交わって生まれてきた子供だからそうなった、そんな自分が少尉や第七師団長という立派だと思われている地位に就くことでその無価値さを証明してやりたい、というものだ。
2つ目は、自分は人を殺しても罪悪感のわかない人間だがおかしくない、他の人間はみんなあるふりをしているだけだ、誰だって罪を犯しうる、高潔だと思われている人間にだって人を殺しても罪悪感なく生きられる素質はあるはずだ、というものだ。
だが尾形は勇作にも罪悪感なく生きる素質があると納得するためには自分も父親から愛されていると証明する必要があると考えてしまった。ここで反発していたはずの親の愛の有無で人間に違いがあるという理論を気付かぬうちに肯定している。また、父親の愛を証明するために勇作を殺害したことで、勇作に罪悪感がないと確かめるどころか、手を汚させることすら無く死なせてしまった。その上に父親は勇作がいなくなっても尾形を愛さなかった。尾形は親の愛の有無で人間に違いはないという認識を自ら手放したばかりか、勇作にも罪悪感なく生きられる素質はあったと確かめる機会まで自ら手放した。これ以降は愛のある親から生まれた人間には罪悪感があり、愛のない親から生まれた人間はおかしくて罪悪感を持たないという1つ目の理屈に大きく傾くことになる。
2つの行動原理は尾形がおかしいのかおかしくないのかという重要な点で相反する。しかし罪悪感などの通常価値があるとされているものの無価値さを証明したいという点は共通する。尾形が罪悪感のない人間であることを前提としている点も共通する。
1つ目の行動原理と、不完全燃焼に終わった2つ目の行動原理が合流するかたちで高まったのが、手を汚さないことで偶像視されている人間に手を汚させたいという欲求だ。罪悪感を持たない自分はおかしいという思いを払拭できなかったことで、せめて人を殺せる自分はおかしいという思いを否定したい欲求は確固たるものになった。この欲求は元は鶴見から高潔な勇作はこちらに引き込むのが難しいぞと反感を煽られて火がついたものだった。手を汚さない人間は高潔なんじゃなくて弱虫だ、弱虫なんて問答無用で殺せばいい、というふうには開き直れないのが尾形の性格だ。
尾形は母親を愛していたから、父親を立派な将校と呼ぶ母親の言葉を単に無視できずに、わざわざ無価値さを証明しようとしたのだし、鶴見にも親のような愛を求めたから勇作を持ち上げる言葉を無視できずに無価値さの証明に走ろうとしてしまった。
しかし尾形は最後に、実は自分の中に存在した罪悪感と向き合わざるを得ない状況に陥った。「勇作だけが 俺を愛してくれたから」殺して罪悪感を覚えていたことを認識してしまったのだ。母親を殺した時も父親を殺した時も覚えなかった罪悪感を、だ。そのために2つの行動原理はどちらも破綻する。