メモ帳用ブログ

色々な雑記。

すずめの戸締まり見た。面白かった。今までの新海誠監督作品で一番監督が作品に対して客観に作っている感じで、そこがちゃんとプラスに働いていた。監督手づからのノベライズも発売されてて、ストーリーの流れやセリフを確認するのに便利。ちょっとした補足説明もある。でも映画で一番重要な演出は拾いきってないし、追加シーンがある一方でカットシーンもあるから、映画の完全な再現というわけではない。
公開前情報だと星を追う子どものリベンジ作品かなという印象で確かにその要素もあったけど、


どっちかというと天気の子をすごくわかりやすくリベンジした作品だった。人はいつか死に、人類はやがて滅びるのに、なぜ人は生きていけるのか、というメインテーマはどちらにも共通している。天気の子の貧困や異常気象も、すずめの戸締まりの震災も、それ自体を描くのが目的というよりは人類の黄昏を描くためのモチーフだ。
天気の子の僕たちは大丈夫だに込められた作品としてのテーマ性は天気の子のクライマックスの鈴芽の長台詞シーンとほぼ同じなんだけど、批判する声も多かった前者のシーンと違って後者のメッセージがしっくりこない人はそういないと思う。天気の子で陽菜を人柱から開放した後の空中落下シーンと似た演出の、しかし意味の異なる空中落下シーンがすずめの戸締まりでも繰り返されるのは意図的なものだろう。旅の途中で交流した人々からもらった衣服が中盤の山場でズタボロになり、クライマックスに向けて新たに旅立つ前にそれを捨てざるを得なくなる、っていう流れも天気の子と共通するテーマをよりわかりやすく演出で表現していると感じた。
ただし一点天気の子とは大きな違いがある。天気の子は子どもが神(保護者)と喧嘩別れする話だったのに対して、すずめの戸締まりは子どもが神(保護者)と和解する話だ。天気の子は青臭い刺々しさが魅力で、すずめの戸締まりには地に足のついた成熟と暖かさを感じる。人間の保護者であるはずの神のダイジンが実は鈴芽の子になりたがっていたという重層性も面白い。鈴芽はあくまで飼い主とペットのつもりで「うちの子になる?」と聞き、クライマックスのダイジンの「すずめの子には なれなかった」というセリフもそのつもりで受け止めている。しかしダイジンはおそらく鈴芽が自分の母親になってくれると勘違いしてこの言葉にうなずいた。この時のダイジンと、母親を失ったばかりで環から「うちの子になろう」(ノベライズ版でなく映画のセリフ)と言われた時の鈴芽は全く同じ気持ちだったはずだ。そのダイジンをすずめは自分と草太が同じ未来を歩むために犠牲にしてしまった。その痛みが娘と母親(代わり)というこの作品のテーマをより掘り下げている。サダイジンに自分の本音の醜い部分だけを引き出されてしまった環と鈴芽の口論は生々しくていたたまれなくなった。ただそういうわだかまりもわかり合って乗り越えてこその本当の家族だと思うし、気まぐれな神がどの程度計算していたのかはともかく、結果的に醜い本音も心からの愛情も全て受け入れて前に進めた。
サダイジンの封印が解けた件についてはノベライズでも特に説明されていなかったけど、要石は百年単位くらいで位置をかえて差し直す必要があるようだから自然に封印の解ける時期だったのかも。鈴芽が要石を抜いてしまったのも最後のちょっとしたひと押しになった程度で。要石のひとつがなくなってミミズが暴れたからサダイジンの封印が解けるのも少しは早まったかもしれない。
ところでサダイジンはサダイジンと自ら名乗った。おそらくダイジンも元からダイジンという名前の神なのだろう。ダイジンを見た人々が口々にダイジンというあだ名をつけたのは、そういう名を持つ神を人間が見たことで人間の意識のほうが自然と影響されたということかもしれない。ここからは完全に自分の妄想だが、かつてはウダイジンという神がおり、その神とサダイジンがセットだったのかもしれない。だがその神が逃げてしまい、代わりに要石にされて数十年かけて神を宿す(草太の祖父のセリフを参考)ようになった人間の子どもがダイジンだとか。