メモ帳用ブログ

色々な雑記。

前半鈴芽と草太の話で後半芹澤と草太の話。
ラブストーリーの定番からしても、新海監督の過去作からしても、主人公が初恋の憧れの相手との恋愛を成就させることは珍しい部類に入る。憧れが散った後でより現実的な恋を見つけるというのが黄金パターンだ。ただどちらにも例外はある。


すずめの戸締まりはその例外に新しく加わった作品だ。鈴芽は淡い憧れを越えて草太に本物の恋をし、最後にはその恋が実ることが示唆される。
草太はストーリーの大半で鈴芽にとって憧れの相手だ。ある漫画の言葉を借りるなら、理解から最も遠い感情を抱いていた相手ということになる。草太は出会いの際だけでなく、椅子にされた後も、天然ぶりがうかがえるようになった後も、鈴芽に対しては一貫して大人の頼れる男性として接し続けた。鈴芽はずっと草太のそうした面だけを見てきた。鈴芽にとって草太は初めての戦友であり、草太にとってもおそらく鈴芽は初めての戦友で、2人は互いに相手にしか見せたことのない面を見せ合っていた。
しかし草太には自分にまだ見ていない顔があるという当たり前のことを鈴芽が知るのは東京に来てからだ。
草太は職業旅人の浮世離れした存在ではなく食べていくための稼業を必要とし、教師を目指すような生身の人間だった。その血肉を今は失っていても。いかにも俗っぽく、それでいて愛情深い友人もいた。複雑な思いを抱えているらしい祖父もいた。そしてそうした面に触れたからこそ、鈴芽は憧れの存在としてだけではないひとりの人間としての草太を救いたいと強く願うようになった。
鈴芽は常世で草太のまさに人間としての面を見つめる。草太は鈴芽に出会ったことで心残りなく生を手放せたのではなく、鈴芽に出会ったことで生にこれまでにない執着を覚えていた。草太は草太にしか見せたことのない鈴芽の顔を見てくれていた。鈴芽のまだ見たことのないものも草太は見ていた。鈴芽は草太と同じ気持ちになり、自分も生きたいと言いながら涙をこぼした。そして常世よりも深い死の淵から自らの手で草太を救い出した。友という漢字は人が手と手を取り合う様を表している。
ところで草太は相当に天然というか、大胆というか、変人だ。突飛な椅子の姿で突飛な行動を取っているとかえって中和されてしまって普通に感じるが、生身の状態でも人格があのままであることを考えると、容姿だけでなく言動でも際立つ存在だっただろう。大学では周囲と距離を保って浮世離れした美男子とみなされていたのか、変人のイケメンとして親しまれていたのかが気になる。どちらにせよ、芹澤とは男同士らしく遠慮のいらない友達付き合いをしていたことがうかがえる。
一方で草太は度々目立つ怪我をしたり、急に数日大学に来なくなったりすることでも有名だっただろう。芹澤は無神経で深く考える前に物を言ってしまうところがあるが、面倒見のいい男だ。草太の怪我などを心配し、理由を問いただしたことは一度や二度ではないはずだ。両親がおらず祖父も入院しているという話を友人として聞いていたとしたら、なおさらに草太の身は気にかかる。だが草太が本当の事情を言えるはずもなく、かといって数年に及ぶ友人付き合いの間ずっと誤魔化し続けられるような嘘をつけたとも思えない。芹澤は友人だからこそ幾度も本気で草太に怒っただろう。環が鈴芽に怒ったように。芹澤は草太が心配だから話してほしくて、草太は芹澤を巻き込みたくないから言えない。その度に芹澤は口ではもう絶交だと言ったかもしれない。実際草太はこれまで他の友人をそうした理由で失ってきたかもしれない。だが芹澤は結局すぐに戻ってきて、草太の世話を焼く。
芹澤のツンデレデレは初登場時からあまりにわかりやすかった。ツンからデレが高まって助太刀に入り、「勘違いするなよ。お前を倒すのはこの俺だ」と言い出すようになるベジータや飛影並みに最初からわかりやすかった。「あいつは自分の扱いが雑なんだよ……腹が立つ」という言葉にも棘と裏腹の深い愛情が滲んでいる。登場シーンの後の芹澤はほぼデレのみになる。また、この憤りは鈴芽が出会ってすぐの草太に「子供のわがままか」腹を立てたことと対応している。自分の扱いが雑な草太は、鈴芽を庇って怪我をした時に病院にも行かずそのままどこかへ行こうとしていた。この芹澤のセリフは映画だと口調で草太の身の顧みなさに芹澤が辛くなっているのが伝わるが、声のない小説版では「何があったにせよ連絡くらい出来ねえのかよ。子供かよ。常識ねえのかよ……」というセリフを足してニュアンスを補っている。
この作品では大人にもまだまだ未熟な部分があるという点が重視されており、草太もその例外ではない。だからすれ違いが生まれ、だからこそ理解し合おうとする。
確かにただの人間でしかなくミミズも見えない芹澤は草太の戦友にはなれない。閉じ師としての草太から見れば芹澤は自分の守るべき只人のひとりだ。二人の立場はあまりにも違う。
立場が違えば見えるものも違う。芹澤が被災者である鈴芽の前で人々の生活の消えた被災地を美しいと言ってしまい、凍りつかせたような瞬間は草太と芹澤の間にもあっただろう。芹澤は深く考える前に口にも行動にも出す。
それでも芹澤は鈴芽を助けて草太にあと少しのところまで送り届けた。20kmの距離は決して小さくはないけれど、それでも数百kmの道のりからすればほんの一部だ。芹澤と鈴芽と環の間には他の誰にもない奇妙な連帯が生まれた。芹澤は草太から肝心なことを何一つ教えてもらえないままでも付き合うことを選んできた男で、鈴芽に対してもそうした。
個人的なベスト芹澤シーンは鈴芽の垣間見た草太の記憶の中の芹澤だ。芹澤は優しそうに微笑んでこちらを見ている。草太はずっとひとりで只人を守るために閉じ師の仕事をしてきた。それでもこのワンカットだけで、芹澤がいてくれたおかげで草太は随分と大丈夫になれたのだと伝わってくる。
見えるものの違う人間には埋まることのない距離があるのかもしれない。だが人一人と人一人の間にある距離を理解しつつ、それでもともにいて、ともに歩んで行くこともできる。朋という漢字は同等のものが2つ並列している様を表している。朋也にとって草太はそういう男で、草太にとって朋也はそういう男だ。