メモ帳用ブログ

色々な雑記。

サメとイルカとジュゴンが似たようなもの見えるというレベルで、長安督武司は武侠+タッチ+WJ版封神演義に見えるし、マグメル(拾又之国)はハンターハンター+WJ版封神演義に見えるし(第年秒先生の自己申告によればトリコ+ワンピース+ハンターハンター)、日月同錯はブリーチ+東京喰種+WJ版封神演義に見える。
第年秒先生はWJ版封神演義も好きな漫画の1つだそうだけど、第年秒先生が凄くWJ版封神演義から影響を受けているというよりは自分の感受性の問題だと思う。中国的な陰陽論・運命論とジャンプ的な少年漫画フォーマットとオタク・メタ的なノリが融合した作品に対して自分が触れた経験が少ないせいで、特定の作品にだけ結びつけて考えてしまうのかなと。

第年秒先生の长安督武司は、稀代の名君とされる李世民を小悪党として描いたり、长安督武司の現メンバーで実力・人格ともにトップなのが雇われ外国人のマアト・テミス(テミスは主人公・雲心暁の亡くなった弟に心酔している)だったりと、中国としては挑戦的な内容。副題も英語のChanganTerminator(長安終末装置)。
ただし今後の展開予想としては、兄殺しの李世民は○○○に秘密裏に暗殺され、○○○が李世民に成り代わって後世で名君と讃えられるようになる、っていうのがありえなくもない雰囲気だった。长安督武司は再開できないそうだから展開予想は無意味だけど。

同じ作者だから当たり前だけど、日月同错(屍者の13月)には长安督武司と拾又之国(マグメル)の要素が多く入っている。特に长安督武司の要素が強い。
テーマと連動して登場人物の名前に日・月・朝・昼・夜関連の用語が多く使われてる点も长安督武司から引き継いでる。でも敵が吸血的な存在だということもあって、今の日本だと別の作品を連想させてしまうな。特に趙炎が「炎」なのはタイミングが良すぎるんだか悪すぎるんだか。

ヨウといえば、ヨウは日本語的な意味で相当卑怯な手段を取るキャラではある。でもヨウの卑怯さは困難な責務を果たすため、勇気をもって全力で危険に飛び込むための手段だからそれでいいのだ。日本語では勇士と卑怯者は両立しうる。命を救うために汚い手段も取るキャラは自分も好きだ。
一方で中国の懦夫は勇士の反対語。力も意思も何もかも弱い者に対して使われる。黒山村の村長が光から殴られたのだって白小小を生贄にするという汚い手段を取ったせいだけではなく、汚い手段を取った責任を白小小に押し付けて自分の弱さから目をそらしたせいだ。
でも生贄を差し出さなければ皆殺しになるような村で生贄が堂々と帰ったらああいう対応が取られるのは容易に想像がつきそうなものだけどな。まあ光は12歳だしと納得しておくけど、世間知らずすぎというか現代的な価値観すぎやしないか。修行する前は一般社会で生活してたのに。かといって実際の西暦1906年の人間らしい価値観でも感情移入しにくくなる。こういう価値観のズレを扱う手段としては転移者・転生者設定がどうしても便利だ。商業作品でも多いし、アマチュアのウェブ小説だと一時はそればかりだったそうだし。
黒山村への対応では黄二果が一貫して模範的。作品としても光が青すぎて暴走気味なのをわかりやすく示すため、隣に黄二果が置かれている。日本語では省略された「この村の人間が虐殺されたらお前のせいだぞ」ってセリフも作品としての正解のセリフ。ただ正解をわかりやすく表現しすぎてきついセリフになっているきらいはあるかも。まああくまでメタ的に使いやすいポジションにいるのが役割のキャラではあるんだけど、役割をまともにこなせてるから黄二果はレギュラーキャラの中だと好感度が高め。

中文版をざっと読み直したところ、屍者の運命的なものについて言及するときは運命や天命などの「命」が入った言葉は使わないようになっているみたいだ。屍者には命がないから当たり前といえば当たり前。その代わりによく使われる言葉が「天意弄人(天の意思が人を弄ぶ)」や「造化弄人(創造神が人を弄ぶ)」。屍者は死人なので人ではある。
道教には「我命在我不在天」という言葉がある。我が命は我に在り、天に在らず。中国は基本的に「天命」を尊ぶ文化だけど、一方で仙人になって「天命」を超越するという思想もある。もしかしたら法師(求法者)の本命には、天命でない自分本来の命という含みがあるのかもしれない?
ところでこの「造化弄人(創造神が人を弄ぶ)」という言葉はマグメル(拾又之国)のテーマにもなっていると思う。マグメルの意識は伝承が正しいなら創造神。構造者の構造能力はマグメルから授かったもの。ヨウ的な存在が3人いる理由は1つの本当の世界と2つのダーナの繭(想像之国)があるから。ダーナの繭(想像之国)の構造者はマグメルの意識。この構造が解き明かされれば謎も解けるはずなんだけど、まだ情報が足りない。

三眼は理不尽な天に操られた存在であり、なおかつ理不尽な天の権化のような存在。三眼は自ら名前は忘れたと言うように人間性も忘れきっている。三眼の出した結果に憤りを覚えさせることで運命に抗うというテーマを認識させる。というキャラポジションなんだけど、変に人格あるように見えるせいで白小小や黒山村の人間と三眼を同列に並べたくなるのが混乱の元だな。
今のところ不屍王が自然天象の1種に見えるのと同じように、三眼も理不尽な自然天象とみなすのが本来は正しいはず。
三眼は
「咱也可以把此目借与傀儡,当然,只要咱意识健在,就算身体四分五裂。此神通依然会由咱所控。」
「だから死体の方が扱いやすい。
傀儡にこの目を貸すこともできる、当然、
オレの意識がある限りは、体がバラバラになっても。
この神通力は依然オレが制御する。」
と語っていた。だから三眼から借元真目を借りるということは三眼と同列になることを意味するのではなく、三眼の傀儡になることを意味している。白小小は黒山村の住人の傀儡をやめた代わりに三眼の傀儡になった。
三眼が借元真目を貸した直後のあの反応はやっぱり白小小の言葉が意外だったんだと思う。たぶん三眼は白小小から意識の喪失を望まれるにしても感謝の言葉ももらえると思っていた。でも白小小は直前の回想で三眼に包囲されたせいで父親が生贄になるしかなくなったことを再確認していた。だから白小小は三眼に対してきつく自害を命じた。でも人間性のない三眼には力を貸したし自分から自分に対する復讐を勧めたのにそこまでつっけんどんな対応を取られる意味がわからなかったんじゃないか。
下手に首を突っ込んだせいで望まぬ自害を強いられて残念がるという三眼の行動は西暦525年と西暦1906年で共通している。

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