メモ帳用ブログ

色々な雑記。

地味に気になるのが、大怪我を負った白大は丹薬を使って自分の治療ができたのかという部分。
丹薬を渡した時に姜明子は「一种罕见的续命药(一種の希少な長命薬)」だと言い、粉にして水に溶かして「让每个染疾之人服下一点(患者ごとに少しずつ服用させる)」ように言った。また復活に数万年かかる傷を負った三眼は白大の渡した丹薬のおかげで1500年ほどで復活できた。さらに重症を負った白小小を高皓光は丹薬で治療しようとした。
屍疫の患者は命に別状のある状態ではなく、三眼も命に別状のある状態ではない上に屍者であり、高皓光は未熟だが求法者として丹薬の補助ができた可能性がある。だから単なる薬師の白大が1人きりで丹薬を使った場合に自分の命を取り止められたかは断言しにくい。無理だったと考えても話の流れに不都合な点は出ない。でも丹薬で自分を治療できたと考えたほうが自然な気がする。それに白大が自分の命を投げ打ってでも元凶の三眼に復讐を依頼してしまったと考えたほうが白大の悲劇の深みが増す。白大が自分の命と引き換えに復活させた三眼が、自分の妹の子孫を食ってしまい、さらにそれによってその子孫の子どもも復讐のために死ぬという因果も生まれる。三眼が白大の妹の子孫に借りを返すために自害を選んだことの必然性も強まる。

中国のオタクの間では嫌いな作品の通報合戦をやるのはありがちな行為だけど、審査を通った国産作品ででっち上げな通報の被害を受ける割合は低いそうだ。中国は国策で動漫業界の発展を支援してもいる。ただし規制は強く、闇出版に対する締付けも厳しい。
一方で国外のコンテンツに対する規制はより強まっている。だから日本産のコンテンツが通報を受けると規制の対象となりやすい。2018年に日本産アニメの『ダーリン・イン・ザ・フランキス』が一時配信中止となったのも、理由は公式発表されていないが、通報合戦のせいだとまことしやかに語られる。配信は数週間後に再開されたが、「露出度の高いシーンやコクピット内のシーン」はカットされたそうだ。『ダーリン・イン・ザ・フランキス』はセクシャルなテーマを扱ったロボットアニメで、男女複座式のコクピット内のシーンが後背位に擬えられていることは日本でも話題になっていた。
中国で“諸事情により”配信停止となった日本産アニメは多数ある。再開されなかったものもあるが、特定のシーンカットや有料会員限定などの制限を加えて再開されたものも少なくない。

『哪吒之魔童降世』と『姜子牙』はどちらも地上で起きる争いには裏で手を引く者がいるという内容だそうだ。
『哪吒之魔童降世』はテーマ性とエンタメ性の両立で大評判となり、興行収入は中国歴代第2位となった。ただ、次作の『姜子牙』は興行収入こそ2020年のトップになったものの評判があまり芳しくない。テーマを語ることに注力しすぎて、ストーリーとエンタメ性がおざなりになっているという。争いの裏で手を引く者の裏で手を引く者の裏で手を引く者の…という構造を一本の映画に詰め込んでいることや姜子牙が終盤弱腰で「不敢反(反逆する意気地がない)」な態度を取ったことから生まれた消化不良感も批判の対象になった。実害は出なかったものの、アンチの中には通報を呼びかける者さえ現れたそうだ。一方でテーマ性や映像美を高く評価する意見もある。
実際に自分が見てみたらどちらの感想になるか気になる。

黒山村のエピソードはテーマは好きなんだけど、村人一人一人と向き合えと訴えかけてくるのに村人がただのカキワリにしか見えなかったりと描写に疑問を感じてしまう。白小小も村人も価値観はほぼ同じで「家畜」そのものだから白小小を理解すれば自ずと村人もわかるということなのもしれないけど。
あと、黒山村の村長と三川の趙炎は、好感度は雲泥の差があるけど、やってることは大体同じだ。だから趙炎を理解してから思い返せば村長の行動も理解できるということなのか?
俯瞰的にストーリーを把握することを求めている割によくわからないアラが多くて全体像の統合がしにくいんだよな。ピースの欠けまくったジグソーパズルを解いているようなものだ。本筋さえ悪い意味で何通りも解釈をこじつけられそう。

明代の小説である『封神演義』は、日本だとWJ版の『封神演義』くらいしか有名な派生作品がない。でも本場中国ではたくさんの派生作品が作られている。
2019年に中国で公開された3Dアニメ映画の『哪吒之魔童降世』は興行収入が中国歴代第2位の大ヒットとなった。シリーズ化も進行中だ。「自分の運命は自分で決める」ことや、「逆天改命(天に逆らい運命を変える)」ことがクローズアップされたそうだ。


シリーズ作品として2020年10月1日に公開された『姜子牙』もヒットした。この映画の主人公は日本では太公望として有名な姜子牙だ。姜子牙が殷周革命(商周革命)を軍師として導いた後に起きた、とある騒動を描いている。このレビューによると「一人を救うのかそれとも大衆を救うのか?もしかしたらどう選んでも間違いかもしれない」ということが重要な問題となるそうだ。

(「救一人还是救苍生?或许怎么选都是错的」=一人を救うのかそれとも大衆を救うのか?もしかしたらどう選んでも間違いかもしれない)


なぜそんな問いかけが行われる内容になっているのかはレビューを読めばわかる。ただし完全なネタバレになる。前作『哪吒之魔童降世』でも、主人公・哪吒が敵となる龍と仲良くなり、人間と龍との間で板挟みになるというアレンジが加えられたそうだ。
第年秒先生の『日月同错』は仙侠的な要素が強い。また第年秒先生はWJ版の『封神演義』のファンだし、天命から解放されるという要素は現代中国人にウケがいいんだろう。『日月同错』からもそんな要素を強く感じる。重要人物の姜明子の名も姜子牙から取っているのかもしれない。また、第9話で姜明子が独白した「内心的冲突,令你逃避了这如何都是错的选择。(内心の葛藤のために、このどれも不正解の選択からお前は逃げた。)」というセリフは3Dアニメ映画『姜子牙』のテーマと通じるところがあるようだ。
『姜子牙』の公開日は2020年10月1日(旧正月の2月が公開予定だったがコロナの影響で延期)で、2019年12月に公開された予告にも「不救一人,何以救苍生(一人を救えずしてどうやって大衆を救うのか)」という言葉が出ている。『日月同错』第9話後半の公開日は2019年11月20日だ。この2作でテーマやモチーフが似通っているのは偶然ということになる。つまり、偶然似通うほど最近の中国では仙人や『封神演義』、「逆天改命(天に逆らい運命を変える)」、「不救一人,何以救苍生(一人を救えずしてどうやって大衆を救うのか)」ということに関心が集まっているらしい。

黒山村は因果が絡み合いすぎてどうしようもない状況になっていた。意図的に殺害した人数で考えれば白小小が一番の罪人だし、加害者を擁護して被害者を批判するのは卑怯だけど、やっぱり殺された村人にも非はあった。
第11話で姜明子は白大を早く家に帰せるなら全てが救えると考える。村人は暴走せず白大の家族を殺すこともなく、三眼は自害したまま復活せず、白小小たちが悲劇に巻き込まれることもない。ただし因果律の働きでそれは叶わなかった。第9話で高皓光も千年前に何も起きなかったらと考えていた。だが恐れたとおりに因果は変えられず、悲劇は止められなかった。元凶を討たなければ因果は変えられない。
三真同月令に選ばれし者の宿命は不屍王を倒すことであり、元凶の中の元凶を討つことだ。それが宿命を変えることだと第1話で師匠は語っていた。
姜明子は屍者のことを完全に切り捨てているが、高皓光は自我の残る屍者についてはまだ救うことを諦めていない。
ところで過去・現在・未来に同時に存在するという不屍王を倒すと何が起きるんだろう。普通に考えたら倒した時点での段星煉の時代以降で不屍王が消えるということのはず。でも3つの時代で不屍王が消滅して以後のそれぞれの時間軸が分岐してパラレルワールドが3つできるとか、最初から不屍王が存在しなくなり歴史が最初から作り直されるとかの可能性も考えられる。

高皓光と白小小の出会いはお互いに不幸な事故といった感じで、しばらくは棘のある会話を続けることになった。黄二果は完全に巻き込まれ損で2人に付き合う義理もなかったし、何度も逃げようと口にした。でも自殺すると脅す白小小を見放せずに最後まで付き合ってくれた。自分たちを生贄にしようとした村人が白小小に殺されそうになった時も力の及ぶ限りは助けようとした。臆病の反対である勇気が求法者に必要な資質なのだとしたら、黄二果は紛れもなくその資質を持っている。
最初はお互いに印象の良くなかった高皓光と白小小だったが、会話するうちに高皓光は白小小の背景を知ったし、白小小は高皓光が暴走気味ながら正義感の強い子どもであるのを知った。相手を理解することで気持ちが通じるようになった。高皓光は白小小という個人と向き合った。
だが高皓光は村人に対しては個人として向き合う前に関係が悪化してしまった。村人を集団として見下してしまった。そのせいで、村人を皆殺しにしようとした白小小を止められなかった。一方で思い切って村人を見捨てて白小小を助けることもできなかった。そんな高皓光に対して姜明子は落胆した。


(中)
故意的?还是无意的?
或者两者皆有?
内心的冲突,令你逃避了这如何都是错的选择。
可以,
那你就以旁观者去看着这一切如何结局吧。
就如面对各自的命运一样。
咱们都是…
无可奈何地被操控着。
至少现在如此。


(直訳)
わざとか?無意識か?
あるいは両方ともなのか?
内心の葛藤のために、このどれも不正解の選択からお前は逃げた。
いいだろう、
ではお前には傍観者としてこのすべてがどう決着するかを見てもらおう。
おのおのの運命と向き合うのと同じように。
我々は皆…
どうしようもなく操られているのだ。
少なくとも今はな。


(日)
避けなかったのはわざとか? それとも無意識か?
いや──… その両方か──…
決断することから逃げた時点で その先に正しき道などない!!!!
いいだろう… ならば自分の運命に向き合えるように 傍観者の立場で最後まで見届けるがいい
私たちは皆
どうしようもなく──
運命に操られているのだ。
今はまだな──…


中文版の直訳だと「ではお前には傍観者としての立場からこれらすべてがどう決着するかを見てもらおう。彼らそれぞれの運命と向き合うのと同じように。」という独白で、姜明子は高皓光が何もしなかった結果起きた惨劇からせめて目をそらさないよう求めている。村人ひとりひとりの死に対して向き合うことを求めている。「ように」は「如…一样」の訳語なので比況の用法で使う。
姜明子は高皓光が傍観者となったことに落胆してるが、後の場面では自分自身も運命に抗えず傍観者にならざるを得なかったことに感傷を抱きもした。
日本語版だとこの部分は「いいだろう… ならば自分の運命に向き合えるように 傍観者の立場で最後まで見届けるがいい」となっている。高皓光が高皓光自身の運命と向き合うことを求めているようなセリフになってしまっている。「ように」も目的の用法で使われている。


この場面の直後、少なくない村人が子どもたちを守ろうとしてた事実に白小小と高皓光は直面する。白小小が村と子どもたちを守ろうとして高皓光に強く当ってしまい、さらには両親や先祖のことを思うあまりに大量殺人者になったように、村人にも我が子を守ろうと必死になるあまりに罪人になってしまった者がいた。