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王子様にはなれないけれど

今年の春は群青のマグメル、MIXに、幾原監督のさらざんまいと気になるアニメが多くて楽しみ。さらざんまいは百合系の今までの作品とは逆な感じだけど、そっちの要素も今までの作品でも扱ったことはあるし、劇場版セーラームーンRとかもいい作品だし、自分としては見て損はなさそう。これからも個性爆発なアニメを作り続けて欲しいんで、ちゃんとターゲットの女性層に受けて成功してくれると嬉しい。
個人的に幾原監督の感性で信頼できると感じるポイントが2つある。1つはウテナみたいな作品を作ってるのにインタビューでは大勢のお姫様に囲まれたい願望があると素直に答えてくれるところ。
もう1つは、これもウテナのインタビューで、監督自身は男として王子様を求められるのをどう思うかという質問に、自分にも女性にお姫様や母親を求めてしまうことはあるし、お互いに求め合って折り合いをつけると答えたところ。"世界の果て"である暁生がああいうキャラなのも、女の子に王子様なんていないから目を覚ませと説教してしまわないように気を付けていたけど、自分自身立派な王子様になれていないという申し訳無さが表れてああなってしまったのではないかとのこと。これを読んで、男女に限らず他者にどうしても幻想を持ってしまう事実を自覚することと、幻想をただ拒絶せず求め合い受け入れ合える範囲を探って折り合いを付けることは大切だと感じた。
それとこの王子様になりきれていないという幾原監督の自己イメージは、作品の結末にも関わっているように思えた。まず、幾原監督は自分と暁生を重ねていたことを色々のインタビューで述べている。こういう悪役側に自分を重ねるタイプのクリエイターは、そういう自分を夢のヒーローである主人公に倒してもらう・変えてもらうことをカタルシスとする場合が多い。ウテナは憧れの存在として作ったという幾原監督も、そうしたタイプの1人であるのがうかがえる。80年代頃から、白々しくなった「熱血」や夢を少年に託せなくなってしまった男性クリエイターの作品は増え、半ばパロディ的に他者である少女に夢を託す試みをする作品もいくつかあった。ウテナも企画段階では世界を見下ろすウテナ、社会システムの幻想から距離を置く女性という構図の物語だったらしい。それが現在のような結末になったのは、幾原監督がウテナと自分を重ねるようになっていき嘘が付けなくなってしまったからだという。幻想を超える存在というある種の幻想に折り合いを付けたと言えるのかもしれない。王子様になれなかったウテナは世界・社会システムを革命できず学園から人知れず消える。だが、ウテナの姿を見ていたアンシーは勇気を得て、自分の足で外の世界に出ていった。