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ミステリ批評としての『九十九十九』

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九』の中で主人公が語っていたミステリ理論が面白かった。特に見立てと大量死・特権的な死についての部分。でも『九十九十九』はメタミステリだから、ちゃんとした理論はあくまでこの後に連続して起きるバカバカしい見立てと大量死の前振りでしかないんだけど。「押すなよ! 絶対に押すなよ!」ってことだ。

見立て

舞城王太郎『『九十九十九講談社,2007年,pp.97-100より

  • ミステリにおける見立ては庭の細工の見立てと同じ狙いがある。
  • 庭の細工では岩が富士山に、池が海に見立てられる。狙いは小ささと限りあることの隠蔽。そのために別のイメージで装飾する。
  • ミステリにおける見立てで隠蔽すべき小ささ・限りとは事件の内容。死も殺人も、推理小説自体もありふれたものだ。どれだけトリックを工夫しようと並列される死に「特権性」は宿らない。実生活、戦争という特殊空間、推理小説という虚構世界、いずれにおいても死は矮小で限りあるものだ。
  • 見立てだけが人間の死の小ささを隠蔽してくれる。推理小説に好んで持ち込まれるのは《聖書》や《有名な童話》といった大きなテキストの見立て。これらを実際は小さい存在である殺人事件に重ね合わせて話自体を大きくし、その中の死も大きくさせる。
  • 《前に起こった事件》の見立てもよく持ち込まれる。その事件と今の事件を重ねることで、スケールを多層化させて拡大できる。
  • 「人間は《小さくあること》や《限りを与えられること》《何でもないという存在であること》を嫌がりやすい生き物なんですね。それゆえ成長することは絶対的にポジティプに捉えられ誰かに認められたいと願い長寿や不老不死を求めたりする。だから人の書く推理小説も同じように《小さいこと》《限られること》《意味のないこと》を嫌い、見立てなんてものを導入する。」
  • 推理小説は前提を覆すことを構造に組み込んでいる。だから見立ては単なる装飾ではなく、ある隠蔽が別の何かを隠蔽する可能性を残す宿命を持つ。

大量死・特権的な死

舞城王太郎『『九十九十九講談社,2007年,pp.277-279より

死ぬにも死に方ってもんがある。
世界大戦中に発生した大量死への反発が《特権的な死を死ぬ》ための装置としての推理小説の隆盛を呼んだという考え方があるらしいが推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。本物の特権的な死というものは皆に惜しまれて死ぬ死であり病苦に耐えて生命の活力を全て使い果たした挙句にやってくる死であり家族や友人や多くの知らない人たちに看取られる死であり死にたくて死にたい方法で死にたいときに死ぬ死であり死ぬべくして死ぬ死である。特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで成厳に溢れた死だ。
誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。出入りの方法のわからない密室で殺されたいとは思わない。特権的な死を求めるとき、そもそも誰も殺されたいと思わない。ましてや殺されたあと、つまらないものに見立てられるための道具となって人格までも失いたいとは思わない。『創世記』『ヨハネの黙示録』は有名で格式が高くて大きな物語だが、しかしだからその見立てのためになら自分は殺されても構わないとは誰も思わない。
死に方と死んだ後の自分の死体の見られ方は別物だ。聖書の見立てを施されることで自分を神に投影させることは望んでも、それのために死ぬことは誰も望まない。本物の特権的な死というのはあくまでも自分の死を死ぬことである。自分の欲しいものを手に入れて死ぬことである。威厳。尊厳。周囲の人間が自分を失うことで悲しんでくれること。惜しんでくれること。もう少し生きていて欲しいと求められること。良い思い出。満足感。自信。良い人生を送ったと言う自負。このように死ねて良かったという死を死ぬ喜び。
推理小説の中の死にそういうものはない。
推理小説が大戦中の大量死を経て隆盛したということがあるならば、それが起こった理由は人間の死の尊厳の薄まりを推理小説家が回復させようとしたせいではなく、うまく利用したせいだろう。人間の死の尊厳が薄まったことで、推理小説家は登場人物を殺しやすくなった、傷つけやすくなった、おもちゃにしやすくなったということだ。唐突な殺意や荒唐無稽な動機を用いることができるようになったし、人の死に接する登場人物の心理状況も軽く描写できるようになった。何よりも、人の死の尊厳ということに頭を使わなくて良くなった。