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色々な雑記。

フィクションと現実の線引を巡る議論は面倒くさいことになりがち。
司馬遼太郎先生の小説やその映像化作品で感動したことがきっかけで史学研究の道に進んだという人はたまに見かける。それは司馬遼太郎先生の功績と呼んでいいと思う。さらに、司馬遼太郎先生の影響を受けて歴史小説家になった人の作品に影響を受けて史学研究家になった人…というように波及効果はどんどん広がっていく。司馬先生の小説で英雄としてのイメージが高まった坂本龍馬新選組石田三成などの関連商品が生み出す経済効果も絶大だ。
一方、司馬先生の小説については一般人に司馬史観という虚構の歴史観を広めたことに関する負の側面が語られることも多い。当時としては綿密な歴史考証を積み重ねてリアリティを出した小説ではあっても、史学的な意味のリアルそのものではない。司馬先生の小説だけを根拠に現実の徳川家をこき下ろして悪感情を広めようとする人間がいたとしたら、その人間は害悪だ。ただ、害悪な人間を生んだ責任まで司馬先生やその小説に求められるかというと別の話になる。
フィクションから影響を受けて悪行に走った人間の責任をどこまでフィクションに求められるのか、という議論はとにかく面倒くさいことになりがちだ。もちろんフィクションは良かれ悪しかれ現実の人間の行動に影響を与える。歴史的にもフィクションは度々プロパガンダの道具に使われてきた。
だからといって影響があることと責任があることはイコールではない。他の例を挙げると、映画『ダークナイト』に影響を受けた人間が犯罪をしても映画や制作者の責任だという声はごくわずかだった。フィクションから影響を受けて悪行に走った犯人の薄っぺらさが裏付けられただけだったと言っていい。フィクションに影響を受けてろくでもない道に進む人間は意志薄弱の害悪。自分の自由意志や感受性くらい自分で守れ、そうでないなら先人が言うところの「ばかもの」だ。自由を踏みにじる洗脳にフィクションを利用した場合ならまだしも、そうでないなら悪行の責任を無闇に転嫁すべきではない。
フィクションから影響を受けて悪行を犯した、は悪人に対する意義ある批判になる。悪人の悪行に影響を与えた、はフィクションに対する意義ある批判にはならない。だけど、たとえダブスタ気味でも、善人の善行に影響を与えた、はフィクションに対するそれなりに意義のある称賛になると思う。権力が意図的にそれを目指しすぎるといかがわしいプロパガンダになりかねないけど。
ただ、責任云々は抜かしても、防犯の観点から悪党が悪行に走りやすい環境は改善すべきでは、みたいな話になると確かに議論する価値があって、さらに面倒くさくなるからとりあえず棚上げ。アメリカでのリベラル的な自由か、リバタリアン的な自由か。社会全体での自由の総和か、より個人的な自由か。