メモ帳用ブログ

色々な雑記。

現実の清末の江蘇省といえば太平天国の乱の中心地だけど、黒山村はどうだったんだろう。あの世界にも太平天国の乱はあったのか。あの世界の戦や乱って強い法師を雇えた陣営が断然有利だな。
太平天国の乱の主導者・洪秀全1864年に食糧不足が発生した折、雑草を食えば生き延びられると主張して餓死同然の病死を遂げた。50歳だった。太平天国の乱が広く支持されたのは当時の民衆が重税で苦しみ餓死者が続発する有様だったせいだけど、天国の実現を唱えた洪秀全も食料問題を天国のように解決することは不可能だった。
中国の明清時代では間引きは一般に「溺女」と表現された。それだけ女児が間引きの対象とされることが多かった。跡取りとなる男子を生かすためだとされる。それは江戸時代の日本でも同じだった。江戸時代の乳幼児死亡率(5歳未満)は、疫病や災害の影響のため年や地域によって大きく変動するが、前期も後期も平均で四割弱になる。「7歳までは神のうち」という言葉はそれだけ乳幼児とこの世との結びつきが薄かったことを示している。江戸前期の人口増加期には女性1人が生む子供の数は平均5〜6人で、江戸後期の人口停滞期には平均3〜4人になった。この中に宗門人別改帳に記載される前に亡くなった乳児の人数は入っていない。人間の男女比は出生時だと女1に対して男1.05程度とされているけど、自然に起きる偏りを超えて明らかに男が多く記載されている宗門人別改帳は各地にあった。女1に対して男が1.2以上となる例もいくつも存在する。
近代以前の価値観が現代とかけ離れているのは、現代と比べ物にならないほど高い乳幼児死亡率や社会体制の脆弱さが背景になっている部分も大きい。