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色々な雑記。

黒山村編では不快な人間でも一括りに悪と決めつけてしまうのは正しくないという問題提起があえて行われている。快=善、不快=悪と決めつけてしまったほうがエンタメとしては成立しやすい。だけど快不快と善悪は理屈の上では分けて考えるべきだろう。
白小小は積極的に自分たちを裏切った村長たちだけでなく、自分たちを見殺しにした村の大人たちにまで等しく殺意を抱いた。それは感情的には当然だ。しかし黒山村の人間はみんな死ぬべきという理屈が成り立つのかと問われれば、そうとは言い切れない。
屍者である三眼の理屈からすると黒山村の住人すべてと自分は死ぬべきとなる。だから理屈通りに白小小へ村人に復讐するための力を授けて自害した。
黄二果は、村人は死ぬべきではないと考え、できる限り助けようとした。日本語版だと削除されているが高皓光に対して「村人が虐殺されたらお前のせいだぞ」と言いもした。ただし実際に村の大人が皆殺しにされた後は子どもである高皓光を責めたりはしなかった。
高皓光は、村長は何をされても仕方がないが、村人のほとんどは死ぬべきではないと頭で考えた。しかし気持ちがついていかず村人全員を見捨ててしまいたくなる。村人全員はやはり殺すべきなんじゃないかと考えかけすらする。思い直して白小小をとめようと考えるものの、覚悟が足りずに選択から逃げてしまう。白小小は村の大人たちを皆殺しにする。
白小小はこの時点では黒山村の人間は皆殺しにすべきという理屈を信じていた。だが何も知らずに自分に懐いていた子どもたちまで殺すことは感情的に不可能だった。白小小は自分が先祖の罪を口実にして現在の欲望を果たすという誤りをおかしてしまったことを自覚する。そして自分に対する罰を受け入れる。
黒山村編では過去の因縁や貸し借りに囚われることの愚かさが描かれている。そしてそこから解放されるためには愛情や思いやりが必要だということが示されている。白小小が村人を助けるために高皓光たちを犠牲にしようとしたことはやむを得ない行為だが、もしそれを高皓光たちが非難したとしても当然の状況だった。しかし高皓光たちは白小小を他の村人から庇った。だから白小小は高皓光たちに心を開いた。また、白小小は村の子どもたちに愛情を持っていたために本当の意味で村人を皆殺しにすることはできなかった。貸し借りの呪縛から解放された白小小は最期に山の外を見ることができた。しかし大局的に捉えるとこの解放すらも運命に操られた結果にすぎない。