メモ帳用ブログ

色々な雑記。

もののけ姫がまるで一件落着した風に幕引きしているのはほぼ詐欺なんだけど、気にしない人にはなんか前向き風に終わった満足感があるし、気にする人は手口の鮮やかさに感心するから、お客は大体みんな幸せ。
もののけ姫はどうにもならない現実とどう向き合うのかってところがテーマの1つになっている。細かいことを気にするタイプのお客がそういう作品を見た場合、どうにもならない現実はこうすれば解決できるっていう非現実的な大ボラを吹かれるよりは、現実の問題は山積みのままだけど前向きに生きていこうって方向のが好みに合うに違いない(偏見)。もののけ姫はこのラインをきっちり抑えてる。
アシタカの「サンは森でわたしはタタラ場で暮らそう。共に生きよう」や、エボシ御前の「みんな、はじめからやり直しだ。ここをいい村にしよう」が実現可能かというと、状況はかなり厳しいんだけど、うまくごまかせてる。
エボシ御前は元々単に私利私欲からシシガミの森を破壊したのではないし、単に権力欲から国崩しや神殺しを行おうとしたのではない。そういう部分が皆無だったわけではないだろうが、彼女にはそうした手段で実現したい理想があった。エボシ御前は山を切り開き、侍どもを撃ち倒すことで、業病の患者や売られた娘たちなど、これまで虐げられてきた者たちが大手を振って生きていける理想郷を作り上げようとした。アシタカも旅の道すがら見てきた戦と混乱の時代の中で、戦と混乱によって自分の救えるものを救おうとした。エボシ御前の語る国崩しとは、つまり革命だ。革命といえばやはり共産主義革命であり、宮崎監督自身が自他ともに認める左翼であることもあって、エボシ御前を名だたる共産主義の革命家と重ねる読解は多い。宮崎監督もタタラ場には大躍進時代の中国の溶鉱炉のイメージが投影されていると語っていることから、この読解は妥当だ。他方、革命には右翼革命と呼ばれるものも存在する。結論との繋がりで考えるとこちらの面から解釈することも可能だ。タタラ場を日本、シシ神の森を東アジアに重ねて解釈することはそう難しくない。
ラストのアシタカやエボシ御前のセリフを日本人が前向きに受け入れやすいのは、第二次世界大戦後の日本がまさにこうして復興したからだろう。宮崎駿監督自身もそうした文脈は意識しているはずだ。ただ、戦後日本の復興がアメリカという後ろ盾のおかげだったのはどうしても無視できない。アメリカの支援は単なる慈善のためでなく様々な利害が絡んだためになされたものだが、結果として日本は急速に経済発展を成し遂げた。タタラ場にこれに匹敵する、もしくは最低限の自衛と現状維持が可能になる後ろ盾があるかというと厳しいかもしれない。