メモ帳用ブログ

色々な雑記。

例によってわかりきったことを再確認するための前置きが長い。
環は


稔が自分に片思いしていることに気づいていない。小説版では鈴芽の一人称の地の文で「彼の環さんへの想いは、環さん以外のたいていの人が気づいている」と語られている。
ただの一人称の地の文なら、語り手の認識が間違っていて、語り手は気づいていないと思っていたのに実は当人は気付いているということはあり得る。だが小説版のすずめの戸締りでは、ほぼすべてのパートの地の文を鈴芽の一人称で統一するために、鈴芽が居合わせていないシーンまでが後々の伝聞を語りなおすという名目で鈴芽によって語られている。そのため不自然なまでに鈴芽が詳細な情報を把握しており、三人称視点の地の文というか神の目と同一化しているようなパートが若干存在している。
「彼の環さんへの想いは、環さん以外のたいていの人が気づいている」と言及するパートがまさにそうだ。三人称視点の映画を一人称視点の小説に変換する都合上、鈴芽は自分のいない漁協の様子を神の目で見てきたごとく語っている。
この環は稔が自分に片思いしていることに気づいていないという情報は、神(=新海誠監督)が読み手に鈴芽の口を通じて伝えたかった内容だと素直に捉えていいと断言できる。でなければ、環が稔の自分への好意に気づいていながら気付かないふりをしつつ、いいように顎で使っている悪女になる。もし環がそういう女性なら、後々に婚活がうまくいかなかった悩みを語る場面でも自業自得としか思えなくなってしまう。
環は稔から恋愛感情を持たれている。環も稔を異性としては意識してはいないものの、親しくて信頼できる同僚だとは思っているようだ。また作中ではお互い恋愛感情は持っていないが、芹澤ともある種の同志となり、マイナスの第一印象からは一転して近しい相手になった。ここからさらにお互いの感情が変化することはあり得る。この先環が恋愛に能動的になればいくらでも道はある状況だ。
逆に言えば、現在の環に恋人がおらず、数年来の稔の片思いに気づかなかったのは、これまでどこかで恋愛に能動的になり切れずにいたからだ。それは自分は鈴芽の保護者であることを何よりも優先しなくてはいけないと、自分で自分を縛ってきたからだろう。自分がまだ若く、同時に鈴芽が幼かった頃は、婚活に参加するにしても相手へ高い要求をせざるを得ず、鈴芽への後ろめたさから身が入りきらなかった。鈴芽が育って自分が三十代も半ばを過ぎた頃には、もう結婚は無理だと決めつけていた。諦めた気になってしまった方が楽だった。
環は物語の終盤で、鈴芽が単なる自分の保護対象ではない、ひとりの人間に成長しつつあることを受け入れた。これからは肩の荷が少し下りて、自分もひとりの人間として何かをする余裕もできて、もしかしたら恋をしたり、結婚相手を見つけたりもするのかもしれない。ただ、「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」と鈴芽に語りかけた時の環は全くそんなことは考えていなかっただろう。結婚願望はあったけれど、姪を引き取り、四十になっても結婚できなかったし、これからも全くアテはない。不満が渦巻いたことや、後悔したことがないわけではない。それでも、この選択は自分に間違いなく温かいものをくれた。鈴芽が、母の妹に育ててもらえたことで母を失った痛みに押しつぶされずに済んだようにように、環は、姉の娘を育てることで姉を失った辛さを慰めてもらえた。
誰かに自分の何かを送ることはそれ自体が救いだ。自分を受け取ってもらえることは、それ自体が願いであり、欲望だ。環は鈴芽にとって重い女だっただろう。だが鈴芽はその重さを環に打ち明け、環の不満を知り、環とのこれまでの確かな温かさを確認し、すべてを受け入れた。環は「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」という言葉を鈴芽が受け入れてくれることをわかっていた。これまでともに過ごした十年以上が、環にそれを確信させてくれていた。だから環の十年は、この言葉を口に出せた時点ですべてが報われている。環は鈴芽に送ったものを受け取ってもらえただけでなく、送ったもの以上を返してもらっている。たまには今以上に見返りのある道はなかったのかと考えてみることもあるけど、そうした些細な痛みも含めて、環の選んだ道は満たされていて、幸福だ。