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色々な雑記。

ダイジンに対して自分は結構


神様だし人間じゃないんだから要石に戻って、みたいな書き方をしちゃうんだけど、その度に要石になった草太に対する「もう それそうたじゃないよ」という言葉の冷たさと、それを聞かされた鈴芽の嘆きを思い出して、同じだけ冷たい言葉を自分が吐き出していることに自分で胸がざわめく。この言葉を投げつけてきたのは確かにダイジンの方なんだけど、ダイジンの理不尽さに憤りたいのならやはりダイジンに同じ言葉を返すべきでないという考えがどうしても拭いきれない。実際、鈴芽はダイジンに対して「要石に戻って」と言ったことはあっても、「人間じゃないんだから」とは一度も言わなかった。
草太を救ってダイジンは救わないという線引は絶対的なものではない。
一見それらしい理屈を付けるなら、草太は人間で、ダイジンは神だ。草太が要石にされたままならば人としての生がいよいよ終わるのに対し、ダイジンが要石になるのは元通りの神の役目に戻ることだ。だがほんの一日足らずでも確かに草太は人間ではなくなっていた。どれだけ僅かだとしても人としての本質が損なわれて神としての本質が入り込んだ可能性はある。そしてダイジンは昔はほぼ間違いなく生き物だった。もし人間でないとしても生き物だったはずだ。限りなく純粋な神に近い存在になっていたとしても、生き物の魂、あるいは精神の残滓はどこかしらに名残りを留めているかもしれない。
生者と神のグラデーションの中に両者はいる。
草太は限りなく生者に近く、ダイジンは限りなく神に近い。ダイジンが生者としての肉体を取り戻すことはおそらく不可能だ。それでもこの違いは真に絶対的なものだろうか。もし草太が氷の槍となった瞬間に人としての本質が完全に失われていたのだとしても、もう二度と胸は鼓動を打たず呼吸が戻ることがなかったのだとしても、「それ」を「人でない」と言ってしまうことはあまりにも痛々しい。
鈴芽は大勢の人々の命の重みを思い知っている。大勢の命と自分の命を直接天秤にかけた時に自分を選ぶことはできない人間で、これは社会性を持つ動物である人類の本能に関わる部分でもある。そしてクライマックスでは自分の命よりも草太と大勢の命を選ぼうとし、そちらも選べなくなり涙した。ダイジンは自分の自由よりも鈴芽の自由を選んだ。だから鈴芽と草太は生者となり、ダイジンは神である要石になった。ただそれだけのことだ。草太が人間であるべきだから人間に戻ったのではなく、ダイジンが要石であるべきだから要石に戻ったのでもない。
この世には死者と生者を分かつ瞬間がありふれている。ありふれた断絶にいちいち私達は心を痛める。その瞬間、生者は生者であるべきだから生者でいられたのではなく、死者は死者であるべきだから死者になったわけでもない。そして人から見たらあまりに理不尽に思える何かが世界の本質であり自然だったことを私達は思い出す。私達の養分はすべて死体からできている。私達の足元は死体とその成れの果ての土くれでできている。私達は死体を踏みつけてしか生きていくことができない。やがて自分たちも還るその土くれを。それでも土くれから咲いて枯れていく花を見ることを、それを美しいと言うことを、自分はまだ諦める気にはならない。