メモ帳用ブログ

色々な雑記。

幾原監督の作品って、基本的に描写に意味はあっても理屈はない。ウテナの映画で水や泡のモチーフがやたら出てくるのは、ある人物の正体とウテナがその人物に囚われていることを示しているから意味はあるんだけど、魂に対してのオカルトやSFな理屈があるわけじゃない。次の段階へ進んでのウテナカーは、学園から外の世界に出ようとしたウテナが自力では何も出来ない状態になるけど、アンシーはそのウテナの力を借りて外の世界に出るという意味で、テレビ版の最終回の内容に相当する。でも理屈とかはない。ウテナでは一応魔女ってモチーフが重要なものとされてるけど、メルヘンな超常現象のモチーフに統一性を持たせるためのものであって、論理化された魔術の体系があるわけではない。こういうのをむりやり理屈付けたり現実に起こりうるリアリティに当てはめようとすると、登場人物は全て一人の人物の異なる側面の象徴であるとか、ストーリーが象徴しているのは一人の人間の内面の葛藤だとかそういう話しかできなくなる。夢オチとして書かれていない作品に対して矛盾があるのは夢オチだからに違いないというのと大して変わらなくなるから、そう明示されていない作品に使うのは好きじゃない理屈だ。ただし、意味付けっていうのは、作風やジャンルっていう暗黙の了解を基にする部分が大きいものだから、作品内で最低限の理屈はあったほうがわかりやすくなる。