メモ帳用ブログ

色々な雑記。

海獣の子供』を見た。原作知ってってPV・MVを見てれば、だいたい期待通りの良い海洋生物萌えアニメだった。「萌え」は元は二次元の美少女に対して使う言葉だけど、最近は工場萌えなんて使い方もするし、海洋生物に対しても使ってしまおう。萌えは元は植物の芽生えを表す言葉だから自然のものに使うのはむしろ正しいのではないかというこじつけもできなくはないし。

なぜ『海獣の子供』が萌えアニメなのかというと、人智を超えて美しいものを見ると人生観が変わる、というのが、良くも悪くも内容の全てだから。いわゆるまともな理屈やドラマ性はほぼ無い。ジンベエザメ、クジラ、宇宙と海の相似、エスニックなんかのどこがどう萌えるかっていうのは、作中でも散々言われている通り言葉では語りきれない。自分は野暮でも語ってみたいタイプの人間だけど、絵と演出と音楽であれだけ描いている作品に対しては、この萌えに触れたいなら見るしかないとしか言えない。主体的に行動した結果何かを得たみたいなドラマ性があると萌えのツボがずれていても面白く見やすくなるけど、海獣の子供は完全に感覚勝負。

途中の空くん(区別のため人名のほうには「くん」をつけておく)が人間として死んでしまってからしばらくまではまともなお話をやるかもと期待できるし、自分が特に好きなパートもその前後ではある。でも結局琉花が何かを託されつつも海くんにも置いていかれてしまうのがクライマックスだし、琉花の体験は傍から見れば夏休みの幻でしかないものとして終わってしまうお話だ。たとえ琉花にとっては一生を左右した幻であり記憶であり幽霊であっても。

この作品、特に原作は、作者の五十嵐大介先生が男性で、対談によれば執筆の当時は海とあまり触れ合っていなかったというのが意外と大事なポイントだと思う。海獣の子供たちに憧れる海の少女である琉花に、山で暮らす男性である作者は憧れを込めていたのかもしれない。『海獣の子供』はデータよりも実感、実感よりも憧れの話だ。

映画版だと一応は多少アレンジして、落ち込んだ人間が海と宇宙の美しさに触れてまた人間の世界に戻っていくというまともな人間のお話っぽくしてたかな。他にも視点を琉花に絞ってジュブナイル風に見せようとしたり、琉花が祭りのゲストであり観客であることを強調したりとわかりやすくしようとはしてた。それでも琉花に見えるものはほんの一部だという作品の根幹は変わらないから、わからないところはわからないままだし、 わかろうとして考えても意味はないという部分の提示についてはむしろわかりくくなってたきらいはあるけど。あとクライマックスの宇宙と一体化パートを真面目にクライマックスとして盛り上げようとした結果なのか、セカイ系SF的なコズミック電波感が原作比でマシマシになってて若干引いた。琉花の父親と母親の和解をわかりやすくしたり、チームメイトが和解を持ちかけてくれてそれに対して素直になれるかも?な人間社会との結びつきの回復を強調するパートとかは、原作とずれるけど、自分は映画としてアリだと思う。