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「被災地に千羽鶴はやめるべき」議論が西日本豪雨で再燃 熊本地震で現場はどうだったか、熊本市に聞く

平成30年7月豪雨」の被災地へ支援の動きが高まる中、「千羽鶴を贈るのだけはやめて」という呼び掛けが話題に。熊本地震の際、現場で千羽鶴に困るようなことはあったのか、熊本市の復興総室に取材しました。

室長: 処置に困ったのは折り鶴や色紙よりも、避難者が少なくなった後でも日本全国から個人の支援物資が大量に届いてしまったことです。被災地のニーズは時間がたつにつれ変わってしまいます。発災直後は水、はがき、生理用品などいろんなものが必要で、それは数があるだけ助かるもの。しかし落ち着いてきてそれらが必要十分あるにもかかわらず、水、毛布、簡易型のダンボール型ベッド、乾電池、化粧品、子ども用のミルク、おしめなどが多く送られてきました。ニーズにマッチしない上に数もすごいので、持て余してしまいました。

 「被災地に千羽鶴はやめるべき」議論が西日本豪雨で再燃 熊本地震で現場はどうだったか、熊本市に聞く - ねとらぼ

被災地に千羽鶴を贈ってしまう人はどこにいるのか (2/2)

西日本での歴史的な豪雨から一週間以上が経った。徐々に道路などの復旧が進んではいるが、未だに孤立した地域があったり、上下水道が復旧しないなどの地域も多い。また、これからは夏の激しい暑さが予想されることから、慣れない避難生活での体調不良や食中毒の発生。また大量に発

しかし、すでに論じたように、実際に千羽鶴に迷惑をしている人は、全くいないとは言わないが、少なくともそこまで執拗に批判するほどはいないというのが現実である。

そうした現実を無視して「千羽鶴の被害にあった、かわいそうな人」を勝手なイメージとして作り上げ、さも己が被害者を守る騎士であるかのように振る舞うことは、滑稽であるばかりか、実際の被災者の姿を見ていないという点で、苦労している被災者に対しても失礼である。

 被災地に千羽鶴を贈ってしまう人はどこにいるのか (2/2)


他人を自己満足のダシにするなと主張しながら、その主張も他人を自己満足のダシにしているだけで終わっていることに気が付けないというよくある話。

支援物資として千羽鶴を送ることに批判が多いのは、ただ迷惑というよりも実際のニーズを考慮しない押し付けがましさに反感を覚える被災者が現実にいるからだし、被災者支援で最優先されるべきは被災者の意見だ。ただ、千羽鶴ばかりが槍玉に挙げられるのは、ありがた迷惑な自己満足の象徴としての共通認識がネットで固まってしまったことによるところが大きいんだろう。問題になった千羽鶴の批判さえ共通認識に沿ってやっておけば被災者の味方になった自己満足を味わえるし、誰でも少なからず覚えのあるありがた迷惑への鬱憤までまとめてぶつけられる。良いほうであれ悪い方であれ何かに強い感情を持つ時は、自分もつい自分自身の経験に引き寄せて考えてしまいがちだ。大義名分を後ろ盾にした自己満足の批判は、批判する方にもそのまま返って来やすいということは、いつも意識しておかないといけない。千羽鶴という些末な問題から第三者が固定化された正解を引き出すための議論ばかりが加熱して、本当に必要な支援という当初の議論も当事者の声も置き去りにされてしまう。