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色々な雑記。


天安門事件での政府の判断を「党は断固とした措置で、党と国家の生死存亡がかかる闘争に打ち勝った」と称賛。中国は二重思考的国家なのでアメリカの圧力は非難するけど、自らが行う武力弾圧は自画自賛する。現状の国家体制が維持されるべきという結論ありき。
ついでにいえば、天安門事件は強硬派の活動家に対して政府がなるべく穏当に対応してやむを得ない犠牲者が出ただけだった、と中国政府を擁護した左巻きの論者を自ら裏切っている。
天安門事件に対してこの発言以下の言説をブログに書いていたことがあるので映画評論家の町山智浩さんには好感が持てない。2004年に最初に投稿した分だけなら武力弾圧は良くないがそれを過大評価するのも良くないという意味に取れなくもないし、それなら同意もできる。確かに天安門の広場では虐殺は起きず、死者が出たのは広場の外だった。
でも追補の部分で「この事件で評価すべきは、柴玲(引用者注:非暴力の民主化デモを行った学生のリーダーたちの1人。広場責任者。事件後に政府はナンバー4のリーダーと認定)たちの冷酷な企みにも負けずに無血撤収を成功させた学生たちと、柴玲たちが期待していたような最悪の事態を食い止めた軍側の指揮者たちである」と断言しているのには同意しがたい。まず中国は人民が頭に付くとはいえ民主主義国家を名乗っているんだから、非暴力デモを武力弾圧して怪我人が続出したり1人でも死亡者が出たりしたら、本来は大問題だ。確かに、民主派リーダーの中に政府が建前をかなぐり捨てて武力弾圧に走ることを予想しながらも強硬姿勢を崩さなかった者がいて、その相談をデモの参加者や支持者にしなかったのだから、その点は責任を問われて当然だ。それでもデモの支持者を多数殺害する決定をしたのはあくまで軍側の指揮者たちだ。学生のリーダーたちは虐殺を引き起こすために積極的な工作をしたのではないし、支持者の自由意志を奪ったのでもないし、中国政府が主張するようにアメリカなど西側諸国の工作員になったのでもない。これで冷酷な学生リーダーたちと評価すべき軍側の指揮者たち、という構図を作り上げるのは欺瞞だろう。
町山さんが紹介している2つの記事も暴力的な学生・市民と穏健な軍という論調のものだ。1つは英米の情報操作を示唆さえしている。
純粋な映画評論家としての町山さんの評価はともかく、政治的スタンスは嫌いだ。左翼思想家でも、チベット弾圧を正当化する左翼とか、その手の左翼を自分は軽蔑している。
左翼でいうと宮崎駿監督も相当に問題発言が多い。それでも、なるべく欺瞞なく意見を述べようとしていることは伝わる。かつて毛沢東をいい人だと思い込もうとしていたことも下手にごまかさず、正当化せず、素直に心境の変化を語っている。細かい部分では納得しがたい発言も多いが、根本的には尊敬できる。傑物である毛沢東への憧れをなんだかんだ捨てきれていない正直さも理解できる。
ところで以前、若き宮崎監督がミリタリアクションシーンのアニメーターを務めたということでアニメ映画『空飛ぶゆうれい船』を期待して見たんだけど、つまらなかった。陰謀論とミエミエでお粗末な善悪の逆転があるだけ。後に宮崎監督自身が理屈に走りすぎていて面白い作品ではないと語っていたのを知って、その通りだと納得できた。この『空飛ぶゆうれい船』が、町山智浩さんが映画にハマり評論家になるきっかけとなった作品だということも後に知った。いかにもな政治思想の持ち主といかにもな政治姿勢の作品の縁だと納得できた。


歴史に対し責任を負う劉暁波
天安門事件30周年――真相究明はどこまで進んだのか
天安門事件の証言者は語る 事件当日、広場に最後までいた侯徳健氏に聞く(半分近くを占める脚注にも興味深い文章や引用が多い)
天安門事件─30年後に浮かび上がる真相と謀略 ─
町山さんが天安門広場での虐殺という「物語」を批判したのは正しい。だが「物語」を批判するために自分自身が別の「物語」をいくつも作り出すという愚を犯している。今枝弘一さんがそれとなく受け手を誤った方向へ誘導しようとしたことを批判しながら、自分自身がそれとなく受け手を誤った方向へ誘導しようとしている。
念の為に確認しておくと、民主化運動家が占拠した天安門広場で軍が虐殺を行ったと報道されたが誤報だった、という点は本当だ。
ただ、誤報は「カメラマン今枝弘一(当時27歳)が撮った写真のせいだ」と町山智浩さんは断定している。原因の1つという書き方ではないし、大きな要因になったという書き方ですらない。
だが事件当時は世界各国の報道機関がそれぞれの情報源に基づいて広場での虐殺という誤認を報じてしまっていた。広場周辺が大混乱に陥り、多数の死傷者で溢れていたためだ。イギリス政府やアメリカ政府は死者数を一万人程度と見積もっていたほどだ。死者数については未だに「絶対的に中立的な立場からの見解」が存在しない。中国政府は1989 年に「民間人・軍・警察の合計で319人」の死者が出たと公表し、その後非公表とした。西側諸国の報道では一般的に数千人の死者が出た可能性があるとしているが、相対的に中国寄りで絶対的には中立に近い立場の研究者は千人を上回ることはないとしている。天安門周辺のデモとそれに触発されて全国で起きたデモの死傷者数を合計して負傷者数2万2000人、死者数931人という研究もある。このような混乱の中、意図的にスクープを大きく見せようとする記者も少なからずいた。最後まで広場に残っていた今枝弘一さんがそれらしい写真を撮りそれらしい証言をしたことの悪影響は大きかったが、あくまで誤報に関与したジャーナリストの代表格のひとりと考えるほうが妥当だ。今枝弘一さんが中国語をほとんど知らず、状況をろくに把握できていなかったことは、批判の的となった。
天安門広場に集って民主化を訴える学生や市民は運動の最盛期には100万人を超えていた。運動の長期化に従い離脱する者も少なくなかったが、万人単位の人間が占拠に加わっていた。中国政府は十数万人の将兵と多数の戦車を各地から招集し、天安門広場の「動乱」を鎮圧するよう命じた。この運動は最後の最後までは非暴力のデモだったにも拘わらずにだ。戒厳部隊は広場に向けて進軍し、妨害する市民に対して武力弾圧を行った。軍は数度無差別の銃乱射をした。ただ、あからさまな武力抵抗を行っていない人間が多数犠牲となった点までは正当化できないものの、先に手を出したのは市民側だったという検証がある。6月4日の午前1時過ぎに戒厳部隊が広場へ到着。ほどなく包囲を完成させ、威嚇射撃などを行った。穏健派の知識人活動家である劉暁波さんや侯徳健さんたち4人は、広場に残っていた3000人(ハンストなどを行っていた運動の中核となるメンバー)の学生や運動家に撤退を呼びかけた。戒厳部隊とも交渉し、撤退は午前4時半に行われた。最後まで広場に残っていた劉暁波さんたちも午前6時半に退去した。
柴玲さんが「政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。だけれど、私は殺されたくないので逃げます」と言ったと、町山智浩さんが乱暴に纏めた部分の日本語字幕を引用すると以下の通りになる(天安門事件の証言者は語る 事件当日、広場に最後までいた侯徳健氏に聞くの脚注の引用から孫引き)。

柴玲:近頃とても悲しいのです。学生は民主化の意識が欠けています。
ハンストを決めた日から結果は出ないと分かっていました。挫折していった人たちもいます。すべて分かっているんです。でも弱みは見せられない。目指すは勝利だと言わないと。でも心の奥では空しかった。のめり込むほど悲しくなって、4月からずっとそうです。でも胸に秘めてました。中国人の悪口は言いたくないけど、時々はこう思わずにはいられません、あんたら中国人のためになんで私が犠牲になるの!
だけど運動を通してすぐれた人にも大勢出会いました。立派な学生や労働者や市民や知識人たちに。
学生はいつも「次は何をする?」と言います。私は悲しくなります。目指すは“流血”なんて誰が言えます?
政府を追いつめて人民を虐殺させる。広場が血に染まって初めて民衆は目覚める。それで初めて一つになれる。これを学生にどう説明するんです?
すごく悲しいのは一部の名の知られた学生が政府のために働いたこと。運動の崩壊を企んだこと。私欲に駆られて政府と取り引きし、運動をつぶそうとした。政府が事を起こす前に撤退を企んだのです。運動の崩壊を許せば、政府は次に運動の指導者全員をつぶします。党の指導者や軍隊の指揮官ら、人民のため党に背いた人々を鄧小平はつぶします。党や社会の少数の反乱分子だけでなく、学生たちまで。そんなこと同志の学生にとても言えない。人民を立ち上がらせるために我々の血と肉が必要だなんて。学生は喜んで死にます。でも、あんなに若いのに。


米国人記者カニンガム:あなたは広場に残りたい?


柴玲:いいえ。


カニンガム:なぜ?


柴玲:私は司令官でブラックリストに載っているから。政府に殺されたくはありません。私は生きたい。人は私を自己本位だと言うかも知れない。でも誰かが私に続いてくれる。民主化運動は一人ではできません。

上記の部分は天安門事件の直後にアメリカで放送されたロングインタビューの抜粋だ。これ自体も実際の発言を大幅に編集している。インタビューの全文は中国語で文字起こしされている。
The Gate of Heavenly Peace - Archives - Chai Ling Interview
インタビューが5月28日に行われた経緯についてはこの記事(無料で会員登録可)が詳しい。
加藤千洋の「天安門クロニクル」(16) ある米国人ジャーナリストと柴玲 (上)「安全」な場所はどこに: J-CAST ニュース
加藤千洋の「天安門クロニクル」(16) ある米国人ジャーナリストと柴玲(下)ある発言が波紋を呼んだ: J-CAST ニュース
「これが私の最後の話になるかもしれません。なぜなら現在の情勢はますます厳しくなってきました......」という柴玲さんの言葉からインタビューは始まっていた。
学生運動のリーダーたちが軽率で能力も足りていなかった点が民主化運動を支持する側からも批判されているのは本当だ。特にリーダーたちの中で紅一点だった柴玲さんは当時必要以上に持ち上げられたと見なされている。運動は当初の落としどころを見失って混迷し、内部分裂を起こし、だからこそ強硬派が先鋭化した面があった。事件後、柴玲さんやウアルカイシウルケシ)さんは情報の錯綜に乗じて天安門広場での虐殺を偽証することさえした。
当時の中国が民主化の成功するような状況ではなかったのも事実だろう。
柴玲さんが、民主化のためには流血で政府の理不尽を明らかにして大衆の目を覚まさせるしかない、と発言すると同時に自らの命を惜しむ言葉を口にしたのは紛れもなく失言だ。少なくない活動家の頭をよぎる考えではあるだろうが、一度でも口に出せば政治生命を失って当然だ。しかしこれは失言ではあっても冷酷な計画の暴露といった性質の言葉ではない。柴玲さん一人が事件の前に不適切な発言をした点を強調し、「柴玲たち」というメンバーのはっきりしない一部の勢力が天安門事件を組織的に企てた黒幕であったかのように語るのは陰謀論的過ぎる。
流血発言は1995年にアメリカ製ドキュメンタリー映画天安門』に引用されて激しい議論を巻き起こしていた箇所だ。柴玲さんは映画での引用に悪意があり、誤訳も含まれていると名誉毀損で訴訟を起こした。例えば、英語で

how can I tell them that what we are actually hoping for is bloodshed, for the moment when the government has no choice but to brazenly butcher the people.
The Facts About the Film

(どうしたら私は彼らに言えるんだ、実は私たちが望んでいるのは流血であり、政府が臆面もなく人民を虐殺せざるを得なくなる瞬間であるなんて)となっている部分は、中国語の元の発言では

我没办法告诉他们,其实我们期待的就是,就是流血。就是让政府最后,无赖至极的时候它用屠刀来对着它的,它的公民。
The Gate of Heavenly Peace - Archives - Chai Ling Interview

(私は彼らにとても言えない、実は私たちが期待しているのが、流血だとは。とうとう政府に理不尽を極めさせてやる時、それはその公民に凶刃を向ける)だ。これは日本語版では「目指すは“流血”なんて誰が言えます?政府を追いつめて人民を虐殺させる」となっている箇所だ。
ただしこの訴訟は特に政治批判での表現の自由を尊重するアメリカのお国柄もあって、すぐに敗訴した。
町山さんの文章の「そして、いざ軍が来るという情報を得ると、自分たちだけCIAの手引きでこっそり海外に脱出したのだ。軍が入ってきた時、広場に残った学生たちは柴玲たちがいなくなっていることに気づいて呆然とした。」という部分には明白な事実誤認が含まれる。虐殺させるためにわざと学生に何も教えないまま早々と広場からような立ち去っていた印象の文章だが、それも違う。
ドキュメンタリー映画天安門』の公開以降、柴玲さんを5月28日のインタビューの後で逃げていたと非難する人間が続出し、それは名誉棄損訴訟の争点の1つにもなった。町山さんもその人間の1人といえる。だがそもそも映画『天安門』では柴玲さんを広場に残った活動家として扱っていた。広場に残りたくないと発言した後で考え直して戻っていったことをナレーションで説明し、6月4日の未明に広場で演説を行っていたという証言を複数紹介している。逃げたと非難した人間は、柴玲さんの発言の一部を映画からさらに切り取って独り歩きさせた。
多くの証言によれば、6月4日の午前1時に軍が到着して包囲が完成しつつあった時、学生のリーダーたちはまだ広場に残っていた。ウアルカイシさんは午前2時ごろ演説中に心臓発作を起こし病院に運ばれていた。侯徳健さんは自分が救急車を呼んだことを証言している。劉暁波さんや侯徳健さんたち穏健派は学生全員の撤退を呼びかけ、柴玲さんは徹底抗戦を主張した。柴玲さんは去りたい者は去り残りたい者は残れと呼びかけて広場に残ろうとしていた、という証言が映画『天安門』でも紹介されている。午前3時半に侯徳健さんと周舵さんは軍との撤退交渉に向かった。柴玲さんに同行を求めたが断られていた。この点は多くの穏健派の活動家も証言している。これ以降穏健派は柴玲さんの姿を確認していないようだ。
歴史に対し責任を負う劉暁波
天安門事件30周年――真相究明はどこまで進んだのか
午前4時半に広場に戦車が侵入。それとともに穏健派の呼びかけに応じて武装解除武装は軍の銃などを鹵獲した物)した3000人のほとんどは交渉通りに撤退した。最後まで広場に残っていた侯徳健さんたち数名は午前6時半に退去した。
身内からではあるが午前4時半に撤退した学生の中に柴玲さんもいたという証言は複数存在する。一方、同行を頼まれてから広場に戦車が侵入するまでの間に柴玲さんが逃走していたという説があるがそれを裏付ける証言や証拠はない。もし逃走説が正しくとも抗戦の主張が他のメンバーから退けられたために逃げたのであって、やはり町山さんの主張する状況とは全く異なる。
周锋锁:《天安门》是一部说学生有错所以政府要杀学生的影片(图)
Tiananmen Beijing Massacre Archive > Blog > Host's Blog - 王丹:为柴玲辩护——致港大学生的信
また町山さんの文章だと、広場を出てすぐにCIAと合流して国外に脱出したのみならず、最初からそういうシナリオをアメリカ政府と練り上げていたような印象だが、実際は違う。大陸から香港経由でフランスに脱出するのは事件の10ヶ月後だ。
Tiananmen Protest Leader Credits 'Lots of People' for Escape to West - The New York Times
天安門事件を知り、学生の亡命を支援したいと考えた香港人がフランス総領事館と交渉を行った。この亡命計画を黄雀行動といい、実業家や有志の人間のみならず、一時は中国警察内部からも協力者が出た。
「天安門」学生の亡命支え 事件後香港活動家ら奔走 「蛇頭」と密航協力 隠れ家用意 民主化求め「闘い続ける」|【西日本新聞me】
香港の宗主国であるイギリスをはじめとする西側諸国の諜報機関から支援を取り付けた。その中には当然アメリカのCIAも含まれ、大きな役割を果たした。だが中国の陰謀論者が主張し、少なくない世界中の知識人が影響された「CIAが天安門事件や黄雀行動を主導したという事実」は存在しないとされる。
さらに、いわゆるタンクマンが戦車の前に立ちはだかったのは6月5日であり、6月3日夜から4日未明にかけての武力弾圧の熱狂はすでに一段落している。タンクマンの抗議が無血のままに終わったことが天安門事件の非暴力性の傍証になるという町山さんの論理展開には疑問がある。もし事件のさなかに起きた出来事だったとしても、この戦車に乗った軍人やこの戦車部隊が高潔だったというだけで、軍そのものの責任を回避することはできない。町山さんも引き合いに出した南京大虐殺において、もし虐殺を拒んだ軍人や部隊が存在したとしても、軍そのものの責任が回避されることはあり得ない。この後タンクマンが逮捕されたことはほぼ確実だが、彼の身元を含めそれ以外の点ははっきりしない。この出来事に対しては、1998年4月にタイム誌が「戦車の写真における英雄は二人だ。すなわち、強大な力に対し命の危険を冒した無名の反逆者と、彼の同胞を葬り去ることを拒否し、道徳的な挑戦に打ち勝った戦車の運転手だ」という意見を掲載している。大きな流れに飲み込まれるのを良しとしなかった両者を称える素晴らしい意見だ。町山さんの「この事件で評価すべきは、柴玲たちの冷酷な企みにも負けずに無血撤収を成功させた学生たちと、柴玲たちが期待していたような最悪の事態を食い止めた軍側の指揮者たちである」という文章はその意見を本歌取りしたものだろうが、こちらは的外れだ。
知識人サイドとして天安門事件をはじめとする多くの民主化運動に参加した劉暁波氏は2010年にノーベル平和賞を受賞した。「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。

上記のサイト(無料で会員登録可)では事件当時朝日新聞北京特派員だった加藤千洋教授が「天安門クロニクル」という特集記事を書いている。武力弾圧についての生々しい記述もある。怪我人が溢れ、情報は錯綜し、事件の全容は広場近辺にいてもそうそう掴めなかった。

北京の日本大使館防衛駐在官を勤めた笠原直樹さんのメモも2019年に公開された。軍の市民に対する無差別発砲やそれによる死者なども記録されている。