メモ帳用ブログ

色々な雑記。

黒山村編を考えるにあたって、損得や恩讐、貸し借りに基づいた義理と、無償の愛情を別の物としておく。恩人を優遇するのは義理で、ある人の恩人になったあともさらに見返りを期待せずに恩を施すのは愛情だ。実際はそうそう分けられるものでもないけど、ある程度単純化しないと比較的できない。
まず白小小の両親が白小小に対して感じていたのは無償の愛情だ。2人は白小小を助けるために自分が犠牲になるという最大の損をした。そして2人は白小小に遠くに行く用事ができたと嘘をついた。若者だが子供ではない白小小が嘘に気付かないはずはなかったが、それでもあえて真実は語らなかった。
父親が生贄にされる時点で建前抜きで話し合いをしていたら、白小小は自分が生贄になろうとしたかもしれない。別の家の人間に生贄になってもらえないかと嘆き村長からより酷い攻撃を受けたかもしれない。復讐を口に出さざるを得なくなったかもしれない。父親は白小小と母親が村で平穏に生きていけるように嘘をつき、それは白小小も理解していた。
だが村人がさらに母親を生贄にしようとしたことで、父の願いは一厢情愿(自分の思い込みに基づいた独り合点、相手や状況を確認しない独りよがりな希望的観測)だったことを知る。母親は父親のところに行くと建前を言ったが、もはや村で生きていけないことは明白なので、山の外に行きなさいという本音を伝えたもした。母親は元は白家の人間ではないはずで、因縁に理不尽に巻き込まれている。それでも自分の復讐ではなくあくまで白小小が生きていくことを望んでいた。
白小小の両親は2人とも嘘をつくという義と理を曲げる行為をした。そして自分の復讐のために白小小の人生を犠牲にすることは望まなかった。それも大切な人に生きていてほしいという無償の愛情のなせる業だ。
一方、三眼がすべての真実を明かしたことは義理に則した行為だ。自分が殺人の元凶で生贄の提案を受け入れたのも自分なのに、あっさり暴露するのは義理に反する部分がある。だがそれ以上に重要な生死の義理を果たすのだから、まあ理屈は通る。ただし先祖の恩讐を子孫にも受け継がせることを前提としている点は議論の余地がある。少なくとも高皓光と黄二果は先祖の罪を子孫に問うことに反対している。また、先祖と現在の借りを返してもらうため、三眼自身を自害させ村人に復讐するように促したのも義理だ。しかし三眼の考える復讐とは、自分が生贄を食うのを邪魔された際に邪魔した人間を引き渡さなければ村人を皆殺しにすると脅すような過剰なものだ。それに引きずられた白小小は義理に基づいて村人を皆殺しにしようとし、村の大人たち全員を殺してしまった。しかし村の子どもたちは殺せなかった。そして村の子どもたちから家族の仇として殺されることを受け入れた。これは無償の愛情だ。
三眼は義理に基づいた行動をとって、白大ばかりか白小小の人生さえも悲劇に突き落とした。もし三眼が白小小を両親のように愛していたら、白小小は山の外で生きていく道を見つけられたはずだった。白小小は山の外で生きていく意欲を持っていたし、高皓光たちは白小小を受け入れるつもりだった。
では三眼には愛情が全くなかったかといえばそうではない。三眼は自分の植えた苗木には愛情を持っていた。
三眼は木を小さな苗木のときに植えて大きくなるのを見守り、愛情を持った。それに対して白家は三眼とは無関係に存在し、千年前に三眼のせいで甚大な被害を受けたが、命を救う引き換えに村人に対する復讐を代行させた。苗木と白家はともに三眼の興味の対象だが、重ならない部分も多い。もし三眼が2つを重ねているのだとすると、自分のおかげで白家が繁栄できたと思いこんでいることになってしまう。しかし実際は三眼が千年前に村人に復讐する際に白大の死体を傀儡にしたせいで白家にまつわる恐ろしい伝承が生まれたのだし、白小小も三眼に復讐を押し付けられたせいで死んだ。