メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ゴールデンカムイは何度も無料公開されるたびに少しずつ読んでいた。最初から「なるほど、面白い漫画だな」と思っていたけど、それが「うわっ、すごく面白い漫画だ」に変わったのは谷垣源次郎の過去話からだった。それまでの作風から予想される方向の話で、それまでからの予想をはるかに超えるクオリティの話を見せられた。予想していたストレートでガードごと持っていかれた気分。谷垣は本筋には大きく絡まないキャラクターだけど、その後もチカパシとの関係や、インカラマッとの恋愛、やがて子を授かり親になるなど、見ごたえがあり心温まるエピソードが数多く用意されている。それでいて鼻につくところがまるでないのだから稀有なキャラクターだ。本質的には苦労人であることの影響が大きいのかもしれない。
ゴールデンカムイの作風の幅を思い知らされたのは尾形百之助の過去が明かされる第103話『あんこう鍋』だ。この作品でこんなにアンビバレンスで退廃的な話がのか!
尾形の思考は常にアンビバレンス、相反する感情が同時に存在している。
まず尾形が好物と言われて思いつくものはいまでもあんこう鍋だ。アシㇼパに好物の話を振られた際に連想している。
幼いころの尾形は素直にあんこう鍋が好きだったようだ。あんこう鍋を作ってくれる母親のことも。だが母親は自分たち母子を捨てた花沢がまた訪ねてくれると信じ、以前美味しいと言ってくれたあんこう鍋ばかりを作り続けていた。そのことに尾形はいつしか気が付いてしまう。あるいは母親にとって、尾形にあんこう鍋を食べさせることは顔立ちの似た父親との思い出に浸るための代償行為に過ぎなかったのかもしれない。子守唄を歌ってくれた時だって「お父っつぁまみたいな立派な将校さんになりなさいね」と付け加えてきたことが後の話で判明している。その時幼い尾形はわずかに顔をしかめた。母親が自分越しに父親を見ていることを悟った尾形は、母親に自分を見てもらうために銃で鳥を撃つようになる。そして鳥で鍋を作ってもらおうとした。だが母親はやはり父との思い出の食べ物であるあんこう鍋に固執し続けた。もともと精神状態の思わしくなかった母親の病状は悪化していく。以前は和服に前掛けの姿で台所仕事ができていたのが、とうとう芸者時代の出で立ちで家の中に立ち尽くすようになる。
そして尾形は殺鼠剤をあんこう鍋の中に入れ、芸者姿の母親を毒殺した。動機は「少しでも母に対する愛情が残っていれば父上は葬式に来てくれるだろう」「母は最後に愛した人に会えるだろう」というものだった。だが、父親は来なかった。この事件に対して花沢は「貴様も頭のおかしくなった母親が哀れで 疎ましかったのだろう? 私と同じじゃっ」と通り一辺な理解を示し、尾形の期待を裏切った。母に対する焦燥は、確かに尾形の背を押したのかもしれない。だが尾形が母親を殺したのはあくまで母親のためを一方的に思ったからだ。母親を愛していたからだ。母親から目を逸らしたかったからではない。
自分が一方的に愛した母親を殺しても罪悪感が生じなかったことが、のちの尾形の人生を規定する。罪悪感の生じなかった自分に苛立つように欠けた人間にふさわしい道を選び続け、殺人を重ねる。
あんこう鍋は尾形にとって母親と自分たちを捨てた男と間の思い出の品だ。母親が自分を愛してくれなかったことを証明する料理だ。母親は尾形が獲った鳥で鍋をつくってはくれなかった。だが同時に、やはりあんこう鍋は尾形にとって母親と自分との間の思い出の品でもあるのだ。今でも尾形は、母親とあんこう鍋を愛している。
あんこう鍋は尾形のアンビバレンスな胸の内を象徴する。


尾形は腹違いの弟である花沢勇作も殺害する。ここにもアンビバレンスが存在する。
まず第103話『あんこう鍋』で尾形の語った殺害の動機は、父親は継嗣が死ぬことで無視し続けた妾の息子が愛おしくなるのか、自分にも祝福された道があったのか、を確かめてみたかったというものだ。この動機に嘘はない。
だがやはり尾形を後押ししたもう1つの感情が存在することが、のちの話で明らかになる。
尾形は母親を殺しても罪悪感の生まれなかった自分を、何かが欠けた人間かもしれないと認識していた。ここで尾形は2つの可能性のうちのどちらが正しいのかを思い悩むようになる。1つめは自分は普通であり、どんな人間でも罪悪感に悩まされることなく人間を殺せるという可能性だ。もう1つは罪悪感を持たない自分は異常であり、それは両親の間に愛がなかったせいだという可能性だ。尾形は前者を証明するために戦争での殺人、しかも捕虜殺しという大罪を勇作に犯させようとするが拒絶される。勇作は出会ったばかりの腹違いの兄にも好意的に接し、慕っていた。尾形も勇作と距離を置きつつどこか好感を持つようになっていった。かつて自分たち母子から花沢の寵愛を奪った存在が、自分と愛情を持ち合おうとしているアンビバレンス。そんな勇作に捕虜を殺させようとする際、尾形は自分が人を殺しても罪悪感のない人間であることを明かしてしまった。勇作は尾形の告白を戦争という極限状態での精神の麻痺ととらえたのだろう。抱きしめて涙し「兄様はけしてそんな人じゃない きっと分かる日が来ます 人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです」と語りかけた。この言葉は表面上尾形を慰めてはいるが、これまでの尾形が歩んできた人生を否定している。この言葉に対する反発が、尾形の引き金を軽くした面はあったのかもしれない。だがこの言葉は、尾形のより本質的な部分を言い当てていた。自分を愛してくれ、自分も憎からず思った勇作を殺害したことで、尾形の心に罪悪感が生じたのだ。
尾形は自分が一方的に愛した人間を殺しても罪悪感が生じない。だが自分が愛し、向こうも自分を愛してくれた相手を殺害すると罪悪感が生じる。お互いに愛情を持ちあった相手を殺害するまではこの構造に気が付けず、自分は罪悪感を持たないと誤解し続けることになる。だがお互いに愛情を持ちあった相手を殺害すれば救われなくなる。
このアンビバレンスな構造により尾形は自滅した。だが同時に自分も罪悪感を持つことを知り、救われた。罪悪感を持っていた自分は僅かなりとも祝福されていたと受け入れることができた。