メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ほとんどの人間は子供の頃、親や家族だけは自分を絶対に愛してくれていると信じており、そうすることで精神の安定を得て、いわゆる健常な発育をする。ある程度以上大人に近づくと親の愛が必ずしも絶対的なものでもないことを悟るようになるが、すでに安定した成長をしているのでそうした事実を受け入れても自分という存在が大きく揺らいだりはしない。こうして親が絶対的な存在でなくただの人間でしかないことを受け入れることも比喩的に親殺しと呼ばれることがある。
逆に言うと、親などから絶対的な愛情を与えられなかった人間の精神は不安定になりがちで、だからこそ親に極端に反発したり執着したりと異常な公道を取ることが少なくない。
鯉登の場合、8歳の時に優しかった13歳年上の兄がむごい戦死を遂げ、桜島大根とからかったのに叱られなかったという普通の兄弟なら微笑ましい思い出にしかならないはずのことすら心に深く罪悪感を刻んでしまった。ファンブックによれば鯉登の苦手な食べ物は桜島大根なのだという。そして父親は鯉登に笑いも叱りもしなくなった。鯉登は兄の死を想像するあまりに酷く船酔いするようになり、父のために兄の代わりに立派な海軍将校になりたいのにそれすら叶わなくなりそうだった。鯉登は落ちこぼれの自分に苛立つあまりに非行を繰り返すようになる。
そんな時に鶴見と出合い、叱ってもらっただけでなく、「君が父上のためにいなくなった兄上の穴を埋める義務はないと思うがね」と言ってもらえて本当に嬉しかっただろう。満たされなかった父への愛、父への絶対的な信頼が鶴見を求めた。その後父とはわかり合えたが、鶴見に向けた絶対的な愛、絶対的な信頼はそのまま維持された。むしろ誘拐から父と鶴見に救出されたことでより深まった。「また偶然会えたのなら お互い友人になれという天の声に従おうではないか」という鶴見の言葉が実現し、「運命でごわんなぁ」とすら思った。鯉登の信じた絶対性も、運命も、鶴見が演出した偽りのものでしかなかったのだが。しかし鯉登は真実を知り、鶴見が絶対的な存在ではないことを受け入れても、鶴見という人間への愛を捨てることはできなかった。