メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ゴールデンカムイのテーマが終盤ちょっと混乱する感じになったのは、最初は大自然の素晴らしさを描く補助としてアイヌも扱う漫画だったのが、中盤はアイヌをはじめとした民族問題そのものが焦点になって、クライマックスは初期に決めていただろうオチへ辿り着くために大自然の素晴らしさを描く補助としてアイヌ扱う路線にやや強引に戻したせいもあると思う。金塊の半分が土地を買うために使われていて、その土地が国立公園・国定公園になったというオチは最初から決めていたように見える。
単にアイヌのことを考えるなら、あの土地をある程度保護して、ある程度開発して、アイヌが自活して権利拡大を目指す路線のほうが適切だ。
というか、もし土方の計画が上手く行ったらそれが一番アイヌのためになったはずなんだよね。現実的に考えるとうまく行かずに日本にもアイヌにも打撃になりそうってのは置いておく。
それにもし鶴見が土地や金塊を手に入れてもアイヌにとって差し迫った脅威にはならない。ぶっちゃけアシㇼパの金塊封印ルートとそこまで違いはない。
土方や鶴見とアシㇼパの方針の違いが一番強く現れているのはアイヌの処遇ではなく、自然の開発だ。
鶴見がもののけ姫のエボシ御前のように開発のためにアイヌを土地から追い出そうとしているキャラだったら対立軸がわかりやすいし、アシㇼパの金塊封印ルートでもカタルシスがあったはずだ。
個人的にはあの時代なら開発により貧民を救うという鶴見の言い分は極めてもっともだと思う。ジブリ作品のクシャナやエボシ御前やムスカや二郎のような近代人の功罪を象徴するキャラクターの言い分も自分はよくわかる。アイヌの文化を守る点からしても、なおのことアイヌ主導の開発は必要性が高かったように感じる。
ただ、ゴールデンカムイはわかりやすいが陳腐になりかねない構図を外しているのが魅力の漫画であることは確かだ。まあ結局は色々なバランスを考えて作者の出した結論が一番、ということになる。


ただ、こういう見解も意識しておきたい。

いずれにせよ、カムイとは動物や植物や火や水のことだと言ってしまうと、「自然」と訳してもよさそうな気もしますが、先ほど言ったように、家や舟、臼や杵、鍋や小刀といった人工物もまたカムイであり、人間のまわりにあって、人間が生きるために何らかの関わりを持っているすべてのものを指しますので、「自然」ではやはりぴったり来ません。むしろ「環境」と言ってしまったほうがよさそうです。

よく、アイヌは「自然との共生」を目指してきた人たちだというような言い方がされますが、私はそれはどうかなあと思っています。だとしたら、自然を離れた都会のまっただ中ではアイヌの世界観が実現できないのでしょうか? そんなことはありません。先ほど言ったように、テレビやパソコンだってカムイであるはずで、カムイとひとつの社会を築いていくというのがアイヌの考え方だったのですから、現代社会の中でそれが生かされないはずがありません。