メモ帳用ブログ

色々な雑記。

正直言ってどの点が論点なのかよくわからなくなりつつある。感受性自体じゃなくて、口の軽さだよな?
自分は子供の頃に引っ越したことがある。その範囲で想像すると、昔の自分の家が緑に覆われた綺麗な廃墟になってタンポポでも生えていたらって想像するとワクワクする。野鳥が巣を作っていたら最高だ。でもそれは自分が今の家が気に入っていて、昔の家はあくまで過ぎ去った思い出の中の家でしかないからなんだよね。事情があって帰れないけどまだ自分の家である場所が草だらけの廃墟になっていたら嫌だ。思い出の中の家が草ボウボウになっているところを想像するなら、更地より元の面影がある廃墟が残っているほうが趣があって格好良くてベスト。
あ、でも他の人が自分の家だったところに住んでいるのを想像したらちょっと嫌な気分になった。まあ、もし自分の家だったところに綺麗な家が建っていたら複雑な気分になるだろうけど、綺麗な家だなと誰かに言われたらそれはそうだと感じるかな。


鈴芽は12年前に宮崎県の叔母の環の家に引き取られ、それからずっとそこで暮らしていた。環はとうの昔に宮崎県に骨を埋めるつもりで、方言もすっかり身につけていて、家だって買った。普通に考えれば鈴芽も完全にそちらが自分の家になっているはずだ。しかし違った。あのシーンはそういう闇の深さを暗示している。4歳の頃に心に負った傷と母やおうちを恋しく思う気持ちは、故郷から離れたためにかえって冷凍保存されてしまっていた。
ついでに言えば、自分の家ではない廃墟から廃墟となっているだろう自分の家を連想することがどの程度一般的で、どの程度想定しておくべき反応かという問題もある。
第一、人間の生活の痕跡とそれを飲み込む自然の不変の営みに美しさを見出すこと自体はごくありふれた感情というか、創作物としても文字通りに古典のモチーフで、正直現代では陳腐になりかねないくらい普通だ。どんな事情があったとしても、それを知っていたとしても、純粋な人工物からも純粋な自然からも感じられない美しさがそこにはあると自分も思う。緑に覆われた廃墟の現在を切り取った創作物も、被災地の現在を切り取った創作物も多数存在していて、そこに写し取られているのは、無情さにしろ、凄絶さにしろ、何があろうと日々が続くことの慰めにしろ、現在の現実が持つ美しさに他ならない。自分も写真とかに収めるとか、陳腐なりにも表現の対象にしたくなる。この感情自体が不謹慎だと言われるなら自分は感情を失って死ぬしかないな。ただ、それは自分が動植物が好きだからで、普通の人はそこまで動植物が好きじゃないかなとは考える。新海監督は福島のあの風景を、あの風景が生まれた理由を知ってもなお、胸が苦しくなると同時に綺麗だと感じたそうだ。だから自分と同じく当事者ではない芹澤に、当事者以外の代表としての言葉のつもりで綺麗だと言わせたという。ただ風景や動植物に対する感性って結構個人差がある。新海監督はもちろん風景や動植物が好きだろうけど、芹澤はどんなもんだろう? 神木さん解釈なら風景に対する感受性はわりと強そうか。
正直言って自分は知らない人より道路の隙間に生えたノゲシとかナズナのほうが好きだ。今の時期だとナガミヒナゲシがとても綺麗なんだけど、あれってごく最近急速に分布を拡大している外来植物で、ナガミヒナゲシが近所にはびこる前の風景も覚えているだけに、外来植物の侵食を綺麗だと感じてしまう自分に少し情けなくなる。
ただ、自分は他人の前でああいう風景を綺麗と口に出すのはまだ自重するかなとは思う。大震災という出来事の規模からしたらあまり年数が経っていないのに、あの風景が自分にとっては受け止められる現実である素振りを見せてしまうというか、災厄の結果もたらされた現状から自分が肯定的な要素を見出せることを他人の前で表に出してしまうのは気が引ける。しかも12年前の出来事を今どう感じているかわからない被災者の前なら。普通の田舎ですら「のどかでいい景色ですね」が失礼に聞こえかねない状況はあるからね。それがどれだけ紛れもないその土地の魅力だとしてもだ。
でもそもそも自分だったら知り合いでもない12年前の被災者と被災地に行くような積極性はないな。気が重くなることは目に見えている。場をもたせるために音楽をかけるくらいは思い付くかもしれないけど、気さくに話しかけるとかは絶対に無理だ。正直、住所はカーナビに鈴芽が入力したんだし(というか鈴芽は4歳までの家の住所をまだ覚えてるんだな)、身の上話をした後の環の言う通りに引き返して2人を置いて行って自分1人で行きたい。むしろ被災者とか関係なく自分1人で行きたい。というか駅で見つけた段階で「草太の居場所を知ってるなら教えろ」とか言っちゃうな。「草太のところに連れて行ってやる(から場所教えて)」みたいな気の利く言い方はできないし、言えたとしても約束守れないかも。環に「草太探してるのは、娘さんだけじゃないんで」って言ったような、鈴芽が自分と同じように草太を心配していることを慮った言い方なんてできない。友達を助けに行くためにほぼ初対面の謎の少女と初対面の謎のおばさんを乗せて500kmの道のりを車で朗らかに走っていける芹澤は脳みそが陽キャすぎる。そして自分の車を運転しているとはいえ、同乗者に断りなくタバコを吸い始めるくらいには適当。大らかで積極的で大雑把。そうするとあれくらい口が軽いのは人物描写として実に的確である。
人の個性は常に長所であると同時に短所でもある。
人によってはこの口の軽さや積極性を無神経だと感じで嫌いになることもあるだろう。鈴芽も一度は芹澤に対して距離を感じた。鈴芽だけでなく誰でも苦手な人間を好きになる必要はない。芹澤だって草太探しの同行者に当然の礼儀として人当たりよくしているだけで、鈴芽にも環にも好かれる必要は別にない。
だが草太が自分の思い込み通りの人間ではなく、草太というひとりの人間であることに気付き、母親とおうちの喪失を受け入れた後の鈴芽は芹澤とも打ち解けた。すずめの戸締まりは喪失を受容する物語だからだ。だからこの物語は、あの震災を描いた物語ではあっても、あの震災の被災者を代表する物語ではなく、鈴芽という明日へ進んだひとりの少女の物語でしかありえないのだ。
新海監督は2023年4月号のダ・ヴィンチのインタビューで「今回、震災を取り巻くさまざまなタブーめいたものを、少し取り払うような仕事ができたのかなと思っています」語っている。あの震災から10年以上を経て、腫れ物扱いせずに現実として直視し、美しさは美しさとして、明日へ進んだ人間は明日へ進んだ人間として表現することに対する使命感は最初から持っていたはずだ。