メモ帳用ブログ

色々な雑記。

冷笑的というか、知らない人は知らなくて、実は少なくはない知っている人もあえて語らないようなことを赤裸々に語る作家として知られている吉田司氏。

宮澤賢治殺人事件』で攻撃されているのは宮沢賢治作品ではない。攻撃の対象は「宮澤賢治」という存在にまつわる虚飾と、それに基づく宮沢賢治作品の解釈。むしろ作品、特に童話に対しては皮肉めいた書き方とはいえ完成度の高さに降伏していると言ってもいい。アンチ的というよりも、食わず嫌い的アンチから転向した拗らせファン的と言えるかもしれない。例えば対談本である『デクノボー宮沢賢治の叫び』などを読んでもわかるように、宮沢賢治作品自体の魅力は認めているけども、その中で示されているご高説が文字通りにご高説としてありがたがられていることや、作風から遡った作者の聖人化に対しては憤懣遣る方無い、というのが吉田氏の立場であるらしい。同じく東北の富裕層(どちらも古着商兼質屋)の出身で屈折した作家である「太宰治」という存在が、むしろファンからもスキャンダラスな面をありがたがられ、それはそれである種偶像化しているとの比較すると、確かに対照的ではある。ただ「宮澤賢治」の浮世離れしたお坊ちゃんぶりや当時としてもやや危うい宗教への傾倒などの指摘自体は目新しいものでもない。この本が刊行当時話題になったのは、指摘内容そのものよりも、自分こそが「宮澤賢治」の本心に共感した者であり汚い面も含めて本当の理解者となったと確信しているような、偏執的な情熱が伝わってくるところにあるのではないかと思う。そして少なくはない読者が自分たちは「宮沢賢治」の本当の理解者だという思い込みに伝染した。

この本で指摘しているように、宮沢賢治作品の農村・農民を理想郷へ導こうとする態度、インテリ・ハイカラぶりにむず痒くなる気持ちは、自分にもわからなくはない。生前の彼を地元がありがたがったというより遠巻きにしたというのは事実だろう。自分の親の実家は北関東の白菜農家で、農家側の感覚のほうも自分には身近だ。このむず痒さは、自覚しているのがうかがえるからこそ余計にむず痒くなる面も含めて、政治活動や宮沢賢治作品に傾倒していた高畑勲監督の作品からも感じる事がある。宮崎駿監督もこの2つの影響は受けているそうだけど、それを作品の核としている感じは薄い。どこかの段階で導く行為そのものに失望した印象もある。

ということも、自分が理解したつもりの思い込みだ。