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色々な雑記。

大岡越前守の有名なエピソードの「1人の子どもの母を名乗る女が2人いて、どちらが実母かわからないので、子どもで綱引きをして勝ったほうを実母と認めると言い渡す。綱引きされた子どもが痛がって泣いた時に片方が可哀想に思って手を離して負けてしまう。だが子どものことを思いやって負けたほうが実母だと認められる。」という話は実話ではない。大岡越前守を主人公にした 「捌きもの(裁判物)」の写本か講談による創作だという。中国の南宋時代に編纂された裁判記録集の『棠陰比事』にほぼ同じ話が「黄覇叱姒」として記録されている。『棠陰比事』は元禄年間の江戸の知識人の間で広く読まれおり、多くの作家に影響を与えていた。ただし、かなり似た話はソロモン王の話として旧約聖書の中にも見られ、 またアジアを中心とした民話にも残っていることから、「黄覇叱姒」の裁判官がこれらの話を知っており参考にした可能性も指摘されている。ソロモン王の話との類似は伝播の結果ではなく人類に普遍的な感覚に基づいた偶然だとする説もある。どちらにせよ広い地域で名判決として受け入れられるエピソードであり、親の子に対する愛は無償の愛だとする感覚は普遍的なものであることがうかがえる。

自分が漫画好きなためもあるだろうけど、このエピソードは現代(というより昭和~平成?)では原型よりもむしろラブコメに変換したかたちでのほうがよく見かけるように思う。ギャグ描写で、男主人公が2人の女性からの引っ張り合いの取り合いをされて痛がるがどちらからも離してもらえない、みたいなのが典型だ。パロディとしては女が2人とも身勝手で離してくれないことを笑いにするのは当然として、舞台をラブコメに移すのはそれがよりしっくりくるようにするためだろう。親子の無償の愛とは違って恋愛は結局身勝手なものだという共通認識が潜んでいるといえるかもしれない。恋愛には性愛が絡む以上、欲望や執着の生々しさはどうしてもつきまとう。だけど物語で恋がいつも愛に劣っていたかといえば、そうとも言い切れないはずだ。一方的に執着するストーカーのような恋はともかく、思い合う恋人同士ならばお互いの身勝手な執着さえも受け入れ合えるから素晴らしいとすることも多い。逆に男1人に女2人の大岡裁きもどきがお笑いになってしまうのは男が幼児のように取り合われるだけの存在に甘んじているからで、男がはっきりとどちらかと気持ちを通わせ合っていればまず起こり得ないシチュエーションだ。ラブコメのコメディ・笑いは気持ちが決められず情けない姿を晒してしまうことや両思いでも気持ちがすれ違っていることを土台とする部分が大きいように思う。また片思いでも、恋は欲を伴っているからこそ、欲を超えて相手のためを考えた行為を取った瞬間の尊さを描くこともできる。