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色々な雑記。

『魔女の宅急便』と『天気の子』の「お仕事」

魔女の宅急便』も『天気の子』も地方から出てきた主人公が都会で就職する話ということで無理矢理気味だけど比べてみた。

魔女の宅急便』も『天気の子』も好きな映画だ。でも『魔女の宅急便』の興行収入が36.5億円で、『天気の子』の興行収入140.6億円であることには社会の理不尽を感じる。作品としての価値も流行やブームに左右される部分があるけど、短期的な商品価値はそれ以上にブームに左右される。長期的な価値だって、どこかでジャンルなり作者なりのブームが起きないとなかなか高まらない。

魔女の宅急便通過儀礼的な要素も含んだ直球の成長ストーリーだ。

町に降り立ったばかりのキキのお上りさんっぷりと、それに軽く苦笑気味な町の人々の対応が生っぽい。ここで心細さを丁寧に描写してから、出会ったおソノさんに自分の空を飛ぶ取り柄を活かせる仕事を回してもらうという流れが気持ちいい。

宮崎監督はインタビューやエッセイで何度も子供のうちから仕事を手伝うことが人格形成に大切だと語っている。だから魔女のキキが13歳でひとり立ちして仕事をすることもごく自然なこととして描かれる。もちろん現実世界では当然ではない点は了承しているので、それに違和感の出ないよう、生活感がありつつも適度にデフォルメがきいた架空世界を作り出している。まず冒頭で魔女とはもの珍しくても普通に村や町に溶け込んでいる存在であることがわかるし、美しいヨーロッパ風の風景もどこかに実在しそうでいてどこにも実在しない空間になっている。モデルにしたパーツをうまく組み合わせている。

キキの仕事は取り柄を活かしたまっとうな仕事なので当然まっとうに苦労する。雨の中頑張って届けた贈り物があまり喜んで貰えなかったりもする。それでも子供らしくがむしゃらに仕事をしていた頃はやっていけたけど、少し成長して思春期になって(トンボに初恋をしてヤキモチを焼いてしまったりもする)、ふと調子を崩して魔法が使えなくなってしまう。年上のウルスラに才能のあり方(血=生まれつき持っている才能や衝動)について相談に乗ってもらい、以前のお客さんから自分への贈り物をもらって、悩みを解きほぐす。そして飛行船の事故に巻き込まれたトンボを助けるためにどうにか再び空を飛び、みんなから応援してもらって、ハッピーエンドになる。実は飛行船のクライマックスは当初予定になかったそうだ。でも興行的にはわかりやすいクライマックスがあった方がいいということで付け加えられたという。今のかたちしか知らない自分からすると、確かにわかりやすく魔法が戻って手に汗握るアクションシーンとなる飛行船のシーンがあって良かったと思う。キキが実家に送った「落ち込むこともあるけれど、私、この町が好きです」という手紙の言葉で物語は終わる。キキは自分を取り巻く世界を肯定する。



天気の子は家出少年が再び家に戻されるまでの、束の間の東京での生活が映画の大部分を占める。

舞台は現代の日本なので、高校生の帆高の家出は反社会的な行動として扱われる。子供は家に帰るのが社会的に正しい。帆高に家と仕事を提供してくれる圭介もかつては家出少年だったというが、今は時代が違う。それに現在は姪にバイトを回しているところからして圭介も一旦は家族と和解したのかもしれない。帆高の家出の理由は具体的には語られないが、閉塞感を感じていたらしいことは示されている。島ではケンカに負けたらしく顔を腫らしている場面もある。

新海監督の魅力はフォトリアルな風景の生む感傷。だから世界観も現実ベースが合っている。でもファンタジーの『星を追う子ども』のリベンジがうまく行けば作風が広がるかも?風景を含めた世界観のちょうどいいデフォルメは難しい。

帆高は反社会性の固まりであるような拳銃を偶然に拾い、自分に優しくしてくれた女の子の陽菜を早まったヒーロー気取りで助けてしまう。実は帆高が威嚇射撃してしまった風俗店の男とは、陽菜がやむを得ず自分から働こうとしていた店の男であり、帆高は陽菜から発砲を叱りつけられる。ちなみにこの時に廃ビルに置いていった拳銃は、また陽菜が自分の「役割」を果たそうとして自分から重荷を背負いに行った時に、帆高が自分のワガママでそれを止めようとして、正論を突きつける大人を威嚇射撃するために、再び使われる。外付けパワー。

ただし2人はこの件で仲を深め、天候が狂い雨の降り止まなくなった東京で、陽菜の晴れ女という能力を活かしたビジネスを始める。陽菜の晴れ女能力とは神に祈ったら授かってしまった完全なる超常現象。外付けパワーだ。だから帆高・陽菜・陽菜の弟の凪の3人は、非現実的なトントン拍子で成功を収めていく。ノートラブルで周りから感謝される。この3人だと本当は帆高が一番歳上なのだけど、中学生の陽菜は働くために帆高にも18歳と偽っており、小学生だがガールフレンドあしらいのうまい凪は帆高から凪センパイと呼ばれ、精神的には帆高が一番下にあたる。

しかし家出少年の上に発砲もした帆高と両親のいない陽菜・は、当然ながら警察に保護されそうになる。一方で陽菜は晴れ女能力の使い過ぎで雲の上の世界に呼ばれてしまいそうになる。陽菜は自分がそちらの世界に行けば天候が正常になることを感じ取っており、それを自分の「役割」と信じて帆高と凪を置いていく。陽菜はあくまで「みんな」のためを選ぶ少女として行動する。愛する人たちを安全な場所に残し命をかけて使命を果たしに行くってのを女の子がやるところが日本アニメ的。セカイ系的というかセカイ系がそうなのもナウシカとかのジブリの影響かも。帆高はかつて陽菜が祈ったという神社に行けば自分も雲の上に行けると信じ、警察を振り切り、圭介に威嚇射撃までする。この一連の場面で帆高がとことんガキとして描かれているのが興味深い。好きな相手を救出しにいく場面は普通ヒロイックに演出するものなのに、強調されるのは帆高のひたむきさよりもみっともなさの方だ。整備中の線路を走る時なんて通行人からたまにいるバカなガキとして笑われてさえいる。

雲の上で帆高に説得された陽菜は地上に帰還する。天候は再び狂ってしまう。3人は保護され、帆高は家に返される。

3年後、高校を卒業した帆高は今度は進学のため正当に東京にやってくる。そして圭介から世界は元から狂っていたと言われるが、もう天気を晴れにすることができなくてもかつてのように雨の中で祈っている陽菜の後ろ姿を見て、自分が世界を変えてしまったことを再確認する。それでも陽菜の顔を見て僕たちは大丈夫だと感じ、物語が終わる。

主人公が世界を救うのを妨害し、明確に過ちとして描きながらも、それを肯定して終わるのがユニークだ。心に残る。