メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ネットじゃただの流行り言葉な人間は(動物より)醜いってのは概ね緩い同族嫌悪ごっこと見ていいのかな。人間の作為は本能のままに生きる野生動物より醜いって意味なのか、自分の善なる部分を好き勝手に投影して上げ膳据え膳で可愛がれるペットよりも現実の人間は醜いって意味なのか、人間が守るべきだと自分が勝手に思ってるマナーを人間が守ってくれないからそれを非難するのに最初からマナーを守る必要のない動物を引き合いに出しているだけなのか(他人にマナーをうるさく言わないのがマナーだというのもマナーを前提としてそれをより良くしようとする考え方だ)も曖昧だけど、まあそういう都合のいい言葉じゃないと流行り物にはならないか。
日月同错だと、天経地義(宇宙の法則である礼や孝)を守れない黒山村の人間は畜生で家畜で生きる価値がない(それに対して三眼は天経地義をとことん守っているという自己認識を持っている)みたいな流れが延々続いた後で、高皓光が蒼天(創造神)でもない自分には生きる価値を判定する資格はないと思い直して白小小を止めようとするが結局は…というストーリーになる。礼を守れる人間は礼を守れない畜生より上という価値観を前提とし(三眼>人間>畜生)、その上で高皓光は別の視野を持とうとしてる。ベースになるのは中国的な価値観というか、礼(マナー*1)をすべての根本に置く儒教的な価値観だ。天経地義を自然の摂理と訳した日本語版だと印象が変わってくる部分だろう。中国的な宗教観では鬼や魔のようなものも陰陽思想的に世界のシステムに欠かせない部分として組み込まれている。日月同错の法屍者たちは「苍天无眼」だの「老天呀」だのの「oh my God! 」的な表現を多用するし、運命に弄ばれたと感じると「天意弄人」と思う。

*1:儒教の「礼」は正しい英語だと「propriety」なのでこれは日本語のニュアンスでの言葉遊び