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風立ちぬの公開前後に堀越二郎の息子さんがいくつかのインタビューに応じている。
風立ちぬの二郎は堀越二郎をモデルにしているがある面では完全に宮崎監督の創作の人物だと断った上で、自分の父の姿について語っている。

父にとって航空機の設計は、自分が好きで入った道でしたし、いい飛行機を作ったということで多くの方々からも認めていただき、自負心の源でもあった。要するに「エブリシング(すべて)」だったと思うのです。それなのに42歳で敗戦を迎え、航空機開発を禁止された。これは父にとってあまりに辛いことだったに違いありません。
 昭和25年に書いた文章の中に、「自分は職業の選択に失敗したと思う。他の分野では大した仕事は出来なかったかもしれないがそれでも良い。私の子供には彼らの好みと才能にあったところの戦争を放棄した日本にふさわしい永続性ある職業が見つかるよう心の底からいのっている」という言葉すらあります。父は日本が世界戦争に突入することを非常に恐れ、日独伊三国同盟が締結された時に「こんなことをするともう日本は戦争への道をまっしぐらに行くぞ」などと母に言っていたそうですが、それはもしかすると、戦争に負けて自分の好きな仕事を奪われてしまうことを、心のどこかで予感してのことかも知れません。

「この設計図を見ると、日付が終戦直前の昭和20年(1945)の6月とか7月頃になっています。堀越は軍の上層部とやりとりをしていたから、日本が負けること、烈風の設計がムダになってしまうことは予想できていたでしょう。
 それでも、彼は職人として技術の粋を結集し、こだわり抜いて設計に取り組みました。集大成のつもりだったんでしょう。エンジンが気に食わなかったので、海軍の方針に反対してエンジンを換えさせたというエピソードもある。軍に一設計者がたてつくなんて、当時は考えられません」(前出・軽部氏)

 こうして作られた烈風が配備されることはなかった。堀越の長男である雅郎氏は、戦後、堀越が烈風について振り返っていたことを覚えているという。

「烈風が日の目を見られなかったことには後悔があったようです。『最初から、あちらのエンジンを使っていれば実戦に出ることができたのになあ』とこぼしていました」

現実の堀越二郎氏は航空機の設計という仕事にやりがいを感じ、ずっと続けることを望んでいた。軍の航空機を設計しながらも、仕事の未来がなくなることに危機感を抱いて日本が世界大戦に突入することを恐れていた節があるほどだ。終戦間際も日本の敗戦を悟っていたはずながらも烈風という新型戦闘機の設計にこだわりを持っていた。戦争への貢献とは関係なく烈風に日の目を見せたいという思いもあった。戦争そのものには一貫して無関心だったようだ。風立ちぬでは「国を滅ぼしたんだからな」と言うカプローニに反論しない二郎を描くことで、二郎を戦争と向き合わせるように脚色している。ちなみにこのセリフは絵コンテ段階では存在せず、アフレコまでの間に付け加えられている。菜穂子の言葉を「来て」から「生きて」にあたり、二郎が重荷を背負いながらも生きなければならないという点を強調したのかもしれない。
一方、現実の堀越氏も自分の設計したゼロ戦に搭乗した人間が亡くなっていったことに対しては、後悔を滲ませることがあったという。

「父はゼロ戦の設計者として有名ですが、ゼロ戦はテスト飛行中に2人のパイロットが亡くなり、最後は特攻機として、多くの若者の命とともに散りました。そのことを父は亡くなるまで悔いていました。今回の映画にゼロ戦がほとんど登場しないのは、宮崎駿監督が父の心を深くくんでくれたからでは、と感じました」