メモ帳用ブログ

色々な雑記。

『天気の子』の「大丈夫だ」も変な捉え方をされて批判されたりしていたな。
この世界は生きようと足掻くに足るのか、アポカリプスの到来を看過してでも生きようとしたことは正解だったのか、ポストアポカリプスを迎えても人間の営みは続くのか、といった問いに対する答えとしての「大丈夫だ」なのに。
あの世界の東京は神=自然と人間の絆がとっくに切れかけていて、ずっと前から雨模様になっていた。それをギリギリ繋ぎ止めるために神から偶然選ばれてしまったのが陽菜だった。陽菜は晴れ女として仕事をすることによって人と神の間を繋ぐ役目を果たした。だが徐々に人の身を失い、天の神の世界に完全に同化しなければならなくなってしまう。そうしなければ自然と人間の絆が切れる。だが帆高は陽菜一人の犠牲で切れるかどうかが左右される絆ならもう切ってしまっていいんだ、それよりも陽菜に生きていて欲しいんだ、と陽菜を救う。
たぶん帆高の「大丈夫だ」を批判する人は『天気の子』が具体的な社会問題に何らかの回答を出すことを期待していたんじゃないかと思う。確かに陽菜・凪の境遇や、帆高が家出したことや、人々があまりにも多くのことに他人事として接していることからは、狭義の社会派の要素を見いだせなくもない。だけどそうした部分は解決しないまま帆高は「大丈夫だ」と言う。だから問題は解決しようとしなくても「大丈夫だ」というのがこの作品の主張だと勘違いした人も出たんだろう。帆高の「大丈夫だ」はもっと手前の、この問題が山積みの世界で生きようとしても「大丈夫だ」、ということを言っているのに。具体的な問題に取り掛かるのは、まず「生きよう」「この世界は生きるに値する」と思えてからだ。
そして新海監督はつらい状況でもこの世界は生きるに値する、と主張するために景色の美しさを描き続けてきた監督だ。生きるとは自分の生きる世界から美しさを見出すことだ。現実の美しさとは力強さかもしれない。繊細さかもしれない。温かさかもしれない。残酷さかもしれない。