メモ帳用ブログ

色々な雑記。

最低限のスタートの平等

中国原作日本制作のアニメ霊剣山は日本でも中国でも評判が悪かった。スタッフを変えての2期は日本だと多少評判がマシになった印象だけど、原作改変がより激しくなったせいで中国ではさらに評価が落ちてしまったらしい。
日本語のできる中国の方がその辺の事情をブログで書いている。その感想を読む限りだと(特に第2期の第2話)文化の違いがあるのを感じる。ただ、アニメの原作(のウェブ漫画の原作)はあくまで娯楽的なウェブ小説で、娯楽のために主人公を持ち上げてその他を愚かにしているだけだから、これだけで文化の全てを語るのは間違い。舞台もあくまで中華風の異世界だ。
主人公である王陸は腹黒の道士で、聞宝は主人公と同門の道士。王陸たちは修行のために村を発展させようとしている。

聞宝パパが言っていたこと
作者が聞宝の口を借りて風刺を言ったと思います。原作では、王陸もこれについて共感できたように見えますが、愚民政策に賛同するより、民の愚かさを嘆く、イラつくほうだと思います。
「ただの村人だから、バカなのも当然。民はバカじゃないと治められない。愚かならば愚かなほどいい!」
「民の愚かさは生まれつきで、治しても治しきれないものだ。バカを治めるには酷さが必要。さもないと、足を引っ張られるうえ、彼らの豊富な経験に負けてしまう。だから、彼らを人として扱わない。人として扱う価値もない。」
「愚民に対する同情心をころして、道具を管理するように、客観的に彼らの才能を活用させることこそ、彼らの価値のない人生に少しでも意味を付与する方法だ。」


中国には身分でなく試験結果によって官吏を登用する制度である科挙の伝統があった。身分の垣根を超える素晴らしい制度だけど、最終的には文化資本や経済資本による格差の再生産を招いてしまった。猛勉強によって下層から這い上がる人間もいたが、逆説的に下層から這い上がれない人間は努力や素質が足りないから放置しても良いという偏見を助長する面もあった。また道士や仙人になって現実的社会を超越することに救いを求めようとしても、仙縁という宿命的な素質が必要だという教義が確立していた。現代的な感覚では経済資本や文化資本の差によるスタート地点の違いは是正されるべきものとされているけども、当時はあくまでもそういう感覚だった。
その点を踏まえると、主人公が「野蛮」な農民と対立しつつもそれを善とはしていない『屍者の13月』『日月同錯』は、時代錯誤なくらい倫理的な作品ではある。ただ最初から難しいテーマを扱ったことが、中国でコアなファンはある程度ついたらしくてもライト層のファンが伸び悩んでいるらしい理由なのかもしれない。