メモ帳用ブログ

色々な雑記。

『日月同错』と『屍者の13月』は内容が全然違うから、自分はあくまで『日月同错』ベースで考える。
黒山村の白家にまつわる問題に灰色くん(灰仔)というあだ名をつけられた主人公が介入するという筋からして、このエピソードは白黒ついたことになっている物事の境界を、改めて高皓光が問い直すという色合いが強い。この色合いは『日月同错』のストーリー全体にも表れる。高皓光は後世に神通で天下を大混乱に陥れた人物として知られることになる。高皓光が太陽でなく夜の中で光る月がモチーフだというのも重要なポイントだ。
黒山村では潔白な人間だった白大さえ姜明子の懸念どおり闇に落ちてしまうし、それ以外の大人たちは白小小も含めてみんな潔白とは言い難い状態で登場する。白小小は積極的に村のために他人である高皓光たちを生贄にしようとしてしまうし、もし村で自分以外の家から生贄が差し出されていれば、自分の家族を守るためにむしろ進んでその家を見捨てていたことが想像できる人物描写がされている。白小小が潔白で村人が黒いのではなく、白小小を含めた村人全員が灰色のグラデーションの中に置かれている。
『日月同错』は武侠・仙侠ベースの漫画なので、善人が悪人を誅殺するのが善であること(天に替わって悪を斬る・替天行道)を前提としている部分がある。良いヤクザが悪いヤクザを討つ。ただその境は非常に曖昧で、主張する者の舌先三寸でどうにでもなってしまいそうな危ういものだ。正直、そうしたテーマを背負わされた主人公・高皓光も独善に見えかねない危うさを感じる。
屍者は生者を食い殺さねば生き延びられない存在であり、登場する屍者は例外なく生者を食い殺したことがある。だからほとんどの求法者は屍者を問答無用で退治すべきだと考えている。まだ悪人しか殺害していない侠客的な性格の屍者も、そのうち完全な悪に落ちていくものなので殺すことが正義だとされている。自分からするとこうした考えを持つ姜明子や周六晴の考えはわかりやすい。ただし高皓光はこうした正義とは違う考えを持っている。高皓光はたとえ殺すべきでない人を殺してしまった人(屍者も人)でも安易に殺すべきでないと感じているようで、自分が救いたいと感じた相手は救おうとする。流石に本当に狂いきってしまった法屍者は退治している。ただしこういう基準は曖昧なのでただの贔屓との区別が難しいというか、やはり独善に見えかねないというか。『BLEACH』や『HUNTER×HUNTER』的なバトル漫画なら主人公が贔屓的に一部の敵と和解しようがあまり気にならないし、それをサブテーマに据えてやや消化不良気味になっても他の部分で挽回できるけど、メインに据えてストーリーを展開するなら難しいテーマだと思う。