メモ帳用ブログ

色々な雑記。

鶴見は仮にも人の親だったためなのか、親子関係がうまく行っていない子供の心の隙につけ込むのがうまい。尾形、江渡貝、父親と不仲な頃の鯉登と、自分が父親のポジションに潜り込むようなかたちで多くの若者の心を掴んでいる。
一方、勇作や、アシㇼパ、父親との関係が改善しその期待通りに指揮官への道を歩みだした鯉登など、父親との関係が良好で父親からの教えを体現しようとしている若者からは距離を置かれがちだ。
だが、鶴見の言葉が常に有毒なばかりで、仲の良い父親の教えが常に正しいのかと言われればそうではない。ゴールデンカムイはその複雑ささえも描いている。
江渡貝は鶴見の計略に巻き込まれて亡くなり、月島は若者を死なせたことを悔やんでいたが、江渡貝本人の心は救われていた。
鯉登が「鶴見中尉殿スゴ〜〜イ!!」の後に「それじゃあ鹿児島で偶然出会ったのも仕込みってことではないか?」と続けたとおり、出会いも、その後の交流も、誘拐事件も、上司と部下としての関係も、鶴見と鯉登の間にあったものは何もかもが計略に過ぎなかった。だがそれを理解しただけでは鯉登は鶴見への愛を捨てられなかった。
鯉登は14歳の時点で東京の海城学校へ進学しており(16歳の時に「海城学校じゃ問題児だったって」と噂されている。海城学校の卒業は15歳から。他の薩摩の学生が故郷に鯉登の荒れっぷりを広めたらしい)、鹿児島にいたのは休暇での帰省ということになる。そのタイミングを見計らって鶴見は鹿児島へ赴き、西郷隆盛の墓参りをしたいと称して鯉登の兄の墓の近くまで案内させ、月寒あんぱんを食べさせて足止めした。兄の死が原因で父親との関係がうまく行っていないことまで調べ上げ、兄の墓の近くで「君が父上のために いなくなった兄上の穴を埋める義務はないと思うがね」と言うところまで計算していたのだろう。鯉登は「鶴見中尉殿スゴ〜〜イ!!」の際にその計算を悟ってしまった。それでも14歳から16歳で父親と和解するまでの間の鯉登にとって、この言葉はかけがえのない支えだったはずだ。
その別れ際に言ってくれた「また偶然会えたのなら お互い優人になれという天の声に従おうではないか」という言葉が、誘拐からの救出という最高のかたちで実現した時には本当に心がときめいて、だから海軍兵学校から陸軍士官学校という土壇場ではありえない進路変更さえ成し遂げてみせた。鶴見の言葉が嘘だろうと、それを励みに頑張った自分は嘘ではない。
月島の「あなたたちは救われたじゃないですか」という言葉は何ひとつ間違っていない。自分で自分を救ったつもりが鶴見の裏工作で救われたと暴露された月島とは全く違う。
それに鶴見の言葉には計算しきれなかっただろうものもある。いくら鶴見でも鯉登がひき逃げした挙げ句喧嘩を仕掛けてくることまでは読めなかったはずだ。「ケンカをするなら自分の名前でやったらどうだ」という言葉や「太刀筋は真っ直ぐで綺麗なのに…」という言葉はとっさのアドリブによる演技にしろ、事前に用意したものでない素に近い言葉のはずだ。鯉登は鶴見とは決別した後でも列車で土方と戦った際、太刀筋を褒めてくれた鶴見の言葉を思い出して自分の力に変えている。
勇作については後で詳しく書くけど、とりあえず、花沢幸次郎が勇作に、殺人をしない旗手になれ、そうすることで勇作が殺人を犯して罪悪感を抱えている者たちにとっての偶像になれる、よすがになれる、と言っていたのは、杉元がアシㇼパを金塊を巡る争いに自ら巻き込みながらも、人殺しになってほしくない、子供の頃のきれいな自分を思い出させれくれるきれいなアシㇼパでいてほしい、と考えていたのと同じようなことだと思う。