メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ゴールデンカムイは一貫して大局に翻弄される個人の視点に寄り添ってきた漫画だ。
最もわかりやすいのが人斬り用一郎のエピソードだ。明治維新は成り、用一郎の信じた大義は実現した。だがそれでも用一郎は自分を道具として使い潰した「先生」や明治政府の下では幸せになれなかった。用一郎はアイヌの村へ逃げ、そこで妻と出会い、ようやく人間として生きられた。
また、まず主人公の杉元佐一からして、金塊争奪に参戦した理由が日露戦争に徴兵されて戦死した幼なじみ・寅次の妻と遺児を救うため、という人間だ。さらに杉元は家族全員を結核で亡くしており、自身も感染者の家族として差別を受けていた。世間という大局に苦しめられ、愛し合った幼なじみの梅と結ばれることもできなかった。それでも杉元は梅が寅次と結婚して幸せになろうが、梅が資産家と再婚して不自由のない生活を送れるようになろうが、梅を思いやり、寅次との約束を守り、2人との義理を果たした。
ヒロインのアシㇼパもマジョリティである大和民族から圧迫を受けたアイヌ民族の少女だ。アシㇼパは差別などどこ吹く風でたくましく生きてきたが、やがてアイヌ民族を導く役割を託されるという別の大局によって自由を奪われそうになり、選択を迫られる。
スヴェトラーナの両親のエピソードも好例だ。燈台守の夫妻はひとり娘であるスヴェトラーナが脱走兵に連れ去られてしまったが、軍や政府には何の対処もしてもらえなかった。そして日露戦争が始まると政府は爆薬を渡し、敵に利用されないために燈台を破壊するよう命令してくる。夫妻はそれに従う義理はないと敵である日本軍に燈台を明け渡す。新しい燈台が作られて自分たちの燈台が不要になった後も、燈台を守って娘の帰りを待ち続けた。燈台守の夫妻に最も同情していたのが月島だ。生死がわからない相手を案じることがどれだけ苦しいのか月島には痛いほど理解できた。自分ではどうにもできない大きな流れ、例えば戦争や生まれに踏みにじられるのがどれほど辛いのかも。
鶴見も日露戦争で中央によって踏みにじられた者たちを救済するという名目で、多くの第七師団の部下たちを心酔させてきた。もっともそれは鶴見の考える真の国家繁栄を実現させるための手段でしかなく、部下たちは状況次第で切り捨てる対象に過ぎなかったのだが。
このように大局の側の非情さを描く一方で、この漫画は大局の側にも道理があることを決して蔑ろにはしていない。作者の野田サトル先生はインタビューなどで、中立を目指している、バランス良く描きたいと度々述べている。
作者の野田サトル先生が「鶴見の選択は自分の中でも正しいことのひとつとしてある」と語る通り、当時の国際情勢や国家観からすれば、自分についてくる者たちを騙して生贄にしてでも国家繁栄を図るという考えは間違いではない。他国に隙を見せれば植民地にされるのが当然の時代だ。明治維新だって用一郎のような人間の犠牲を厭わない非情さがなければ成し遂げられなかった。
野田先生はウイルクがアシㇼパに過酷な役割を背負わせた点についてもファンブックで「彼のアシㇼパに対する姿勢は今の若い子には理解できないかもしれないです。分かってもらえるように描いて終わりたい」と述べている。また作中でもウイルクの姿勢には鯉登平二が理解を示している。他の誰かの子供の命を預かる指揮官として、我が子を可愛さのあまり戦場から遠ざけることはできないのだと。
その息子の鯉登音之進はゴールデンカムイの中で大局を動かす側としての義を示す役割を担った。はじめは愛する鶴見に部下として尽くすことを第一に考えていた音之進だったが、徐々に指揮官としての責任を自覚するようになる。敵を殺し、部下を生かして死なせる判断を引き受ける責任だ。まして音之進が率いるべき陸軍の兵士は、父の率いる志願兵中心の海軍とは違って、ほとんどが徴集兵だ。覚悟が固まるにつれて同胞の為に身命を賭して戦うのが軍人の本懐だとはっきり宣言するようにもなった。そして、月島に対する仕打ちから鶴見に疑問を抱くようになっていた鯉登は、部下たちの生命を背負う責任を巡って鶴見と対立する。最終的には鶴見とは異なる手段で部下たちを守りつつ、国防を果たすことを選択する。