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色々な雑記。

キロランケの名場面投票は「ウイルクへの愛と憧れが、そのままアンチへとねじ曲がったキロランケ」に入れた。
それで改めて考えたんだけど、キロランケはウイルクの本質を理解していた上でアンチ化してしまったのかもしれない。
自分はアシㇼパが生まれる前と後でウイルクの本質は変わっていないと考えている。愛する群れを生き延びさせるために冷徹であろう、合理的であろうと抑制してきた部分が、1人の女性を愛するようになり娘も生まれたためにタガが緩んでしまっただけと。前からそう思っていたし、第30巻の加筆でなおさらにそう思った。一方でキロランケが「ウイルクは変わってしまった」と嘆くのは、本質を理解していないからだと考えていた。少年の頃から歳の離れたウイルクに憧れるあまりに過剰に理想化してしまい、いざ本物のウイルクを理解できる年になった時にギャップを受け入れられず、急に目の前のウイルクがゴミに見えるようになってしまい、自分の命令で他人に殺害させたのだと。
だがキロランケはウイルクの本質が合理性ではなく愛にあることを最初からわかっていたのかもしれない。キロランケがウイルクに憧れた理由とは不純物のない合理性にあるのではなく、群れを生かす合理性を発揮するために己の愛を律せるストイックさにあったのかもしれない。しかしウイルクは愛に振り回されるただの男に成り下がった、と感じた。だからキロランケはウイルクに失望した、ということだろうか。